言わずと知れたDCコミックス『バットマン』の仇敵を主人公にした映画『ジョーカー』が大ヒットしています。日本では4週連続No.1となり、観客動員数は240万人に達し、興行収入は35億円を超えています(興行通信社調べ)。
『ジョーカー』のストーリーはとてもシンプルです。社会から疎外された主人公アーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)が、「人並みの幸せ」を手に入れようと悪戦苦闘した末に絶望し、血なまぐさい暴力とアジテーションの虜(とりこ)になっていくさまを描いています。
「嫌われ者」が不満抱える大衆を取り込む
格差や貧困がはびこり、愛や希望が見いだし難い、閉塞感に満ちた世界に風穴を空ける「アンチヒーロー」というわけです。これが現代を覆っているグローバル化の陰画である殺伐とした世相とものの見事にシンクロし、「暗い内容」にもかかわらず支持を集めて商業的な成功に至ったと捉えることができます。
そもそも『ジョーカー』の作り手(監督・脚本を手掛けたトッド・フィリップスなど)は、『タクシードライバー』など70年代のカウンターカルチャーのノリを基調に制作したことを隠していません。モヒカンとサングラスという異様ないで立ちで大統領候補の暗殺を企てるトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)を、ジョーカーというコミックベースのキャラクターの造形にそっくり移植したと考えても差し支えないぐらいです。
いつの時代も虚実を問わず「アンチヒーロー」の需要はあり、『ジョーカー』も「アンチヒーローモノ」の1つとして消費され、「今そこにある不幸」を一瞬忘れるための気晴らしとなっています。そして、さらにもう少し広い視野で眺めてみると、これが「アンチヒーロービジネス」に包含されていることが分かります。
「アンチヒーロービジネス」とは、時代の反逆児や、世間の嫌われ者、一匹狼などの人物像と物語をウリに、現状に何らかの不満や怒りを持っていたり、体制迎合的な潮流に反発や憤りを覚えたりする者を取り込み、ある種の消費文化として収益化する商法とひとまず定義することができるでしょう。
実際「アンチヒーロービジネス」のバリエーションは、大衆娯楽作品にとどまらずさまざまなジャンルで見いだせます。人気のオンラインサロンや、自己啓発セミナーなどはまさにその系列に入ります。主催者は「世の中の流れに逆らう」スタンスに立っていることがほとんどで、「嫌われ役」を買って出ていることが珍しくありません。
反体制文化の単なる「消費」
そういう意味で、YouTube講演家の鴨頭嘉人氏が自身のチャンネルの動画で述べていたように、「今、人が集まる人とは、正しいことを言う人ではない。本当のことを言う人である」は至言ともいえ、真実に近いのでないでしょうか。
例えば、YouTubeを駆使した炎上商法でファンを獲得するNHKから国民を守る党党首の立花孝志氏は「アンチヒーロー」そのものです。少なくない人々の「自分は他人と違う」「空気を読みたくない」といったアンチ欲求に支えられている面からも、「アンチヒーロービジネス」を成り立たせている「アンチヒーローシステム」の構造は想像以上に奥が深いのです。
つまり、「アンチヒーローシステム」は広範囲に渡っており、『ジョーカー』のような大衆娯楽作品から、前述のオンラインサロンや自己啓発セミナー、果ては新興宗教や政治運動まで、虚実を問わずわたしたちの人生に影響を及ぼしているということです(このシステムを最も凶悪な形で利用し尽くしたのが過激派組織ISIL、通称「イスラム国」です)。
しかし、これは多くの場合、「革命の狼煙(のろし)」というより「反体制文化の消費」に落ち着きます。その証拠というわけではありませんが、『ジョーカー』はすでに「反体制のアイコン」になりつつあります。つまらない仕事をサボって『ジョーカー』を鑑賞し、腐敗した社会を爆砕した気になって“リフレッシュ”する…これが消費のされ方の“王道”というわけです。
要は「その場限りの熱狂で程よくガス抜き」され、結果として「現実を変える」よりも「現実を“やり過ごす”」作法を促し、むしろ「既存の体制を(破壊せず)補完」するのです。もちろん鑑賞後に「周りの風景が違って見える」ということはあるでしょう。けれども、それが良くも悪くも「つまらない仕事」に向かわせるための“刺激的な保養地”として機能するのです。
これには神話学者であるジョーゼフ・キャンベルが、ジャーナリストのビル・モイヤーズに語っている古代神話の役割が参考になります。
キャンベル:古代神話は精神と肉体とを調和させるために作られたものです。精神は奇妙なひとり歩きを始めて、肉体が欲しないものを求めたがる。神話や儀式は精神を肉体に適合させ、生活方法を自然が定めた道に引き戻す手段です。
モイヤーズ:すると、そういう古い物語はわれわれのなかで生きている?
キャンベル:まさしくそのとおりです。
(『神話の力』飛田茂雄訳、早川書房)
以上のキャンベルの指摘を踏まえれば、「アンチヒーローシステム」は、「個人を社会に適合させる」ための「ヒーローシステム」の亜種であることに気付きます。結局のところ、この社会に嫌気が差し、倦(う)んだ人に、「アウトサイダーの夢」を見させ、「インサイダーの道」に「引き戻す手段」ということになるのです。
ここに「アンチヒーロービジネス」の要となるヒントが詰まっています。『ジョーカー』を鑑賞して「実際に殺人に走る」人はまずいないでしょう。あくまで「(悪い)夢」を消費しているにすぎないからです。
「痛快なアンチ」を求める社会への警鐘
しかしながら、ジョーカーことアーサー・フレックは、どちらかといえば「現代におけるありきたりな悲惨」(精神疾患、解雇、いじめ、非モテ、児童虐待等々)をコンプリートした設定です。加えてそこに自尊心が確保できる「居場所のなさ」が刻印されているがゆえに、多かれ少なかれ「慢性的な不幸感」にさいなまれている現代人の琴線に触れ、既存の秩序を転覆させる「(悪い)夢」に共感する境地を切り開いたのでしょう。主人公と観客に「何か重要な接点があると思わせる」“真実味”です。
本作ではそれが「心優しき芸人」の「身の置き所のない地獄」というリアリズムを重視したギミックでした。オンラインサロンや自己啓発セミナーであれば、主催者とメンバー間における「共通の危機意識」となるでしょう。
そのため『ジョーカー』の作り手は、劇中に「ジョーカー」と「熱狂する大衆」の隔絶をあえて仕込んだのでしょう。『ジョーカー』の核心部分だけを抜き出せば、「シリアルキラーが反体制のシンボル」に祭り上げられる、という恐るべき皮肉です。これは私たちが「アンチヒーロー」に「都合の良い夢」を仮託しやすいことへの警句なのです。
今後、わたしたちが「今の世界」に「居心地のなさ」を感じれば感じるほど、コミュニティーの崩壊が進んで社会状況が悪化すれば悪化するほど、「アンチヒーロービジネス」の未来は幸か不幸か異様な明るさを増していくでしょう。
先進国において多数派になりつつある「慢性的な不幸感」にさいなまれた人々は、ゆううつな現実を吹き飛ばしてくれる「痛快なアンチ」を切望するからです。「自分たちが抱える苦悩に関係がある」と思える魅力的な「アンチヒーロー」が、「報われない人々にこそ希望の光が宿る」とか、「現代の悲惨を背負い続けるあなたがた一人ひとりが革命の種子だ」とか、「いや、既にあなた方の種子は芽吹き始めている!」などと鼓舞し始めたら…?。
分かっていて仕掛ける側も、分かっていてハマる側も、訳知り顔でシニカルに観察する側も、例外なしに、この妖しい輝きを放つ「アンチヒーローシステム」の誘惑から逃れ難いことに留意すべきでしょう。(ITmedia ビジネスオンライン)