昭和41年3月、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)技術管理部主査付だった佐々木紫郎(89)=現顧問=は、上司の長谷川龍雄(故人)にこう告げられた。
「排気量は1100ccに決まったぞ」
開発中の新型車の発売予定は11月。すでに8カ月を切った時期での排気量変更に佐々木は驚いた。「コンピューターもなく手書きで図面を書いていた時代。今だから言えるが、常識では考えられないことだった」と佐々木は打ち明ける。
長谷川の指揮の下、佐々木たちが開発を進めていた新型車こそ、日本を代表する大衆車、初代「カローラ」だ。3年後の44年から33年間、国内販売首位を維持し、日本のモータリゼーションを牽引(けんいん)した名車は、高度成長を迎える日本と同様に、がむしゃらなバイタリティーの中で生まれた。
土壇場で排気量変更を決めた背景には、カローラのライバルだった日産自動車の「サニー」の存在がある。車名公募に約800万通の応募が寄せられるなど、サニーは消費者の期待をうまく取り込んだ。
トヨタ自工の上層部は、トヨタ自動車販売の要請をふまえ、カローラ開発陣に1000ccのサニーを上回る排気量への変更を指示した。後に長谷川はこう振り返った。
「命令が降りた以上はやりましょうという気持ちだった」