【ホープクーリエの旗手 藍澤證券の100年】(5-2)

藍澤證券の創業者である藍澤彌八氏(1950年代撮影)
藍澤證券の創業者である藍澤彌八氏(1950年代撮影)【拡大】

  • 旧本社ビル
  • 敗戦で焼け野原と化した東京都心。神田上空より東南方向、浜町、深川本所方面を望む
  • 関東大震災で焦土と化した東京・銀座
  • 東京五輪の開会式で入場行進する日本選手団
  • 大阪万博が開幕
  • バブル崩壊後、国内の株価は低迷を続けた
  • 東京証券取引所立ち会い場
  • 山一証券廃業で大きく揺れ動く、日本版ビッグバンの書籍コーナー

 ■誕生から100年、独自路線で生き抜く 創業者、藍澤彌八の七転び八起き

 一陣の風が男の運命を変えた。1899(明治32)年の越後国加納村(現在の新潟県柏崎市周辺)。後に藍澤證券の創業者となる藍澤彌八氏は、知人宅の棟上げ式で祝い餅をまこうと屋根上にいた。農家の長男として生まれ、当時20歳。跡取りとして人生が確定しようとしていた矢先、突風にあおられ建物が倒壊し、地面にたたきつけられた。左足のすねを骨折、医療技術も未発達な時代で完治の見通しが立たず、農家を断念せざるを得なかった。「東京へ出て勉強をしよう」。その決意が彌八氏の人生を大きく切り開くことになる。

 日本法律学校(現・日本大学)で学び、その後出版社の経理係などを務めるが、ひょんなことから知人の株式の仲買店で働くようになる。人間関係にも翻弄され一時は資産を失い、失意の中、満州(中国東北部)に渡った。帰国したのは29歳の時で、一度は足を洗った相場の世界で再起を期す。東京で知り合いとともに株の現物取引の会社「港屋商店」を創業、曲折を経て彌八氏が経営を引き継ぎ、1918(大正7)年に東京株式取引所(現東京証券取引所)一般取引員として証券業務を開始。七転び八起きの果てに、藍澤證券の歴史がスタートする。

 彌八氏の運用手腕は確かで、港屋商店は相場の世界で頭角を現していく。当時、ばくちのような大勝負で一獲千金を狙う相場師が横行するなか、彌八氏は「思惑取引をしない」という投資哲学を貫いていたという。業界の噂などを手掛かりに短期の価格変動を期待して勘と度胸で勝負するのが思惑取引。これに対し彌八氏の投資手法は、集めた情報を分析し投資銘柄を決め、長期保有し値上がりを待つ。その一方で、株価の下落に備えて保有株と似た銘柄を適宜空売りするといった、当時としてはテクニカルな戦略を展開していたようだ。

 ◆市場の近代化に尽力

 彌八氏は運用実績を上げていく一方で、株式市場全体の維持、安定を目指し業界活動にも尽力するようになる。20(大正9)年、日本の株式市場はそれまでの活況の反動などから大暴落し、取引所がストップする事態に陥った。彌八氏は知人のつてをたより、時の首相、原敬氏に会い、政府資金による支援を直訴したという。最終的に日銀がシンジケート銀行団に救済資金を拠出し、株券を担保に金を貸す形で証券界は救われた。

 当時、国民資産の3分の1が株式だったことから、彌八氏らの迅速な行動が日本の経済を救ったといっても過言ではないだろう。23(大正12)年の関東大震災の時にも被災した兜町の復興資金の獲得に奔走した。

 33(昭和8)年には藍澤商店に改称。40(昭和15)年に一般取引員組合委員長に就任した彌八氏は戦時下の非常時にかんがみ、株価コントロール機関構築を模索。大蔵省(現財務省)出身で蔵相なども歴任した勝田主計氏らと調整を重ね、民間資金を活用した「日本証券投資株式会社」を設立した。同社社長に就任した彌八氏に、大蔵省は「月給をとるのではあるまいな」とくぎを刺したという。「月給も名誉も問題にしていない」。そうたんかを切った彌八氏は無給で株価調整に尽力することになった。当時、証券業界と政府、行政の調整は地場証券の有志らに負うところが大きかったという。

 戦後、48(昭和23)年に藍澤證券株式会社に改称。57~61(昭和32~36)年まで、彌八氏は東京証券取引所の3代目理事長を務めるなど活躍、藍澤證券も兜町を代表する証券会社に位置付けられていく。

 彌八氏はのちに「相場の世界は好きではなかった」と述懐している。ばくちのような取引を続けていては業界の発展はない。市場ルールや投資家保護を整備すべき。そんな思いがあったのだろう。

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 ■貫き通した「顧客本位」の経営姿勢 バブル崩壊、金融ビッグバンにもぶれず

 ◆二代目社長が築いた源流

 その後、息子の吉雄氏が藍澤證券二代目社長に就任。吉雄氏がまず取り組んだのが、当時の営業を支えていた歩合外務員の待遇改善だった。本来はフリーランスに近い歩合外交員の待遇を改善することで、有能かつ品行方正な人材を多く集め、なかには同社役員に登用されたものもいた。

 当時の証券会社は、自己勘定での投資運用が主流で、経営自体、社長などトップの相場観に依存する傾向が強かった。藍澤證券ではいち早く株式売買の仲介サービスを充実させ、手数料収入を収益の柱とする現代に通じる体制を確立していった。

 なぜ業界の主流とは別の戦略をとりえたのか。吉雄氏は関係者に「相場が得意ではなかったから」と説明し笑ったという。少なくとも、この時期に顧客や社員を大事にする経営思想が確立し、同社が今後目指していく「超リテール戦略」の源流もここにあるように思える。

 ◆三代目は米国留学で開眼

 三代目社長に就任したのは彌八氏の孫、吉雄氏の息子の基彌氏。基彌氏は大学で経済学を学び、将来は銀行か総合商社への就職を希望していたという。在学中に米国に留学した際、吉雄氏の紹介で現地の証券マンと面談する機会を得た。現れた40代の証券マンは堂々たる体格と自信に満ちた声で米国の証券業界の現状を説明してくれた。「顧客の背負えるリスクを正確に把握することが証券マンにとって最も重要だ」。当時聞いた話を基彌氏は今でも鮮明に覚えているという。ばくち打ちのように見られがちだった日本の市場関係者にはない高尚な雰囲気。「こうなりたい」。基彌氏が証券業界入りを決意した。

 1965(昭和40)年、祖父の彌八氏の勧めで、当時の証券大手の一角、日本勧業証券(現みずほ証券)に入社した。「まずは相場を知ることが必要」との彌八氏の働きかけから、市場の場立ちから始まり、調査部、営業企画、支店勤務などを経験。73(昭和48)年に藍澤證券に営業統括常務として入社し、6年後の79(昭和54)年、父、吉雄氏の「お前やれ」の一言で社長に就任、37歳の時だった。

 当時、日本の証券業界では歩合外務員から徐々に社員営業へのシフトが進み、顧客の取引回数に比例して上下する報奨金制度などが導入されはじめていた。だが、藍澤證券では「顧客が損をしても報奨金がもらえるという仕組みは、顧客本位ではない」との考えがあり、曲折を経て職能給制度の賃金体系を採用するようになった。

 89(平成元)年に総合証券の仲間入りを果たすが、平成に入るとバブルが崩壊。苦境にあえぐ業界に追い打ちとなったのが、金融・証券業の国際化を目指した金融ビッグバンだった。とくに売買手数料の自由化は、収益の柱が急激な価格競争にさらされることになり、証券各社を苦しめた。これに加え、97(平成9)年からの金融危機で4大証券の一角、山一証券が破綻、三洋証券そのほか多くの中堅証券が倒れていく。当時は顧客資産と証券会社の資産が分別管理されておらず、証券会社が破産すると顧客に資金が戻らない可能性があった。当時、日本証券業協会の理事だった基彌氏は、破綻に備えた補償基金の供給上限引き上げなど柔軟な運用を働きかけた。その後、分別保管制度の導入など業界の信頼性向上が図られていった。

 藍澤證券は金融ビッグバンに耐えながら、徐々に独自の路線を強化していく。対面口座からインターネット口座、コンサルティングネット口座、ラップ口座など多様な取引形態に対応しながら、アジアを中心に新興国株の取り扱いを拡大した。一方で、他の地場証券の買収などで地方の支店網を拡充。主に対面取引で顧客との信頼関係を構築。さらに地方金融機関や地方大学との提携で、地域や業種をまたいで、証券仲介だけでなく相続や事業継承、事業の海外展開支援など複合的サービスを提供する「クロスボーダー・ソリューション」事業へと舵を切りつつあり、多方面から今後の活動に注目が集まっている。

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 ■藍澤證券の100年

 1918年07月 創業者藍澤彌八が東京株式取引所(現東京証券取引所)一般取引員港屋商店として証券業務の取り扱いを開始

 1933年10月 株式会社藍澤商店(資本金100万円)を証券業務の取り扱いを目的として、東京市日本橋区に設立

 1948年10月 商号を藍澤證券株式会社に変更

 1952年01月 日本證券投資株式会社(東京都)を吸収合併(資本金1300万円)

 1988年07月 外国為替および外国貿易管理法に基づく証券会社に指定

 1989年01月 資本金を17億200万円から32億200万円に増資し、総合証券会社に昇格

 1999年10月 インターネット取引「ブルートレード」を開始

 2000年08月 香港、台湾、韓国のアジア株の取引を開始

 2002年01月 上海B株、深センB株の取り扱いを開始

 2002年10月 平岡証券株式会社(大阪府)と合併(資本金50億円)

 2006年02月 JASDAQ証券取引所に上場

 2006年10月 シンガポール、タイ、マレーシア株式の取り扱いを開始

 2009年08月 ベトナム、インドネシア、フィリピン株式の取り扱いを開始

 2010年01月 イスラエル株式の取り扱いを開始

 2012年02月 『日本・イスラエル・ビジネス交流貢献企業表彰』受賞

 2013年05月 八幡証券株式会社(広島県)を完全子会社化

 2015年01月 上海・香港ストックコネクト(上海A株)の取り扱いを開始

 2015年03月 上場市場を東京証券取引所市場第一部に変更

 2016年02月 八幡証券株式会社と合併

 2016年12月 深セン・香港ストックコネクト(深センA株)の取り扱いを開始

 2017年03月 日本アジア証券株式会社(東京都)を完全子会社化

 2018年07月 日本アジア証券株式会社と合併