ライバルと明暗 栄華を誇った「小僧寿し」だけが大きく苦戦した理由 (1/3ページ)

 かつては全国で2000店舗超を展開し、すしの世界に価格破壊を起こし、すしを庶民のもとに取り戻したのが、すし持ち帰り専門店チェーン「小僧寿し」である。(長浜淳之介,ITmedia)

 2016年5月に同業者である「茶月」の買収を完了し、両チェーンで合わせて直営110店、フランチャイズ(FC)133店の計243店を展開中(18年9月30日現在)。全盛期からは8分の1程度以下とずいぶんと減ったとはいえ、外食・中食の専門店で、100店を超えるところはそう多くなく、今でも大手の一角を占めている。

 しかし、17年12月期の連結決算は、売上高が54億2000万円(前年同期比0.8%減)、営業損失は3億2500万円となった。今期も非常に厳しい状況が続いており、18年第3四半期決算では、売上高が39憶800万円(同0.1%減)、営業損失は4億1100万円となっている。

 今回は、小僧寿しが成し遂げた“すし革命”と、再建への苦闘について記していきたい。

小僧寿しは再成長できるか?

小僧寿しは再成長できるか?

いつの間にか高級になったすしを庶民の味に

 江戸時代には、銭湯帰りに庶民がちょっと軽くつまむ屋台の味だった握りずしは、いつの間にか日本の伝統芸となった。すし職人が「高所得者」「美食家」としてまつり上げられ、一食数千円以上、1万円以上も当たり前という、特別なお祝い事で使うような高級店へと変質した。そういった「すしは高級食」という常識に「ノー」を突きつけ、昭和の高度成長期から平成初期にかけて、全国で低価格なすしを売りまくったのが小僧寿しだった。

 子どもの頃、小僧寿しのおせちでお正月を過ごした思い出のある人もいるのでは。また、「バッテラ」や「太巻き」が懐かしくなって、たまに無性に食べたくなる人もいるだろう。

 小僧寿しが低価格なすしを定着させなければ、今日の100円回転ずし四天王「スシロー」「くら寿司」「はま寿司」「かっぱ寿司」の台頭もなかったかもしれない。そう考えると、日本の食文化に小僧寿しが果たした貢献度の大きさは計り知れない。

小僧寿しの店舗外観

小僧寿しの店舗外観

かつては外食産業のトップに君臨した

 小僧寿しの前身は、1920年に創業した大阪府堺市のすし屋「鮨桝」だ。3男として生まれた山木益次氏は、材木問屋の丁稚をしながら夜間高校に通った後、セールスマン、調理見習い、ナイトクラブのボーイなどを経て、1961年に家業を手伝うようになり、翌62年に支店を任された。しかし、営業不振に陥り、試行錯誤の末、64年に持ち帰りずし店に転換。これが当たって65年に株式会社化した。この会社が小僧寿しの原型となった。

 70年、山木氏が米国のチェーンストア理論を導入して、大量仕入れと大量販売、業務マニュアル化、店舗画一化の導入により一気に全国展開を狙った。しかし、資金難、社員との相互理解不足、組合問題などが噴出し、社内が混乱。鮨桝の社長辞任を余儀なくされた。

 72年、再起して新たに小僧寿し本部を設立。「すしのファースト・フード」「日本一の低価格」を掲げてFCシステムで急成長した。79年には年商531億円を計上して、外食産業日本一となった。マクドナルド、すかいらーく、吉野家らを凌駕(りょうが)して、天下を取ったのだ。

社名にある“小僧”の意味