【成長への挑戦 熊谷組の120年】(5-2)引き継がれる挑戦者の系譜 (3/3ページ)

熊谷組の創業者である熊谷三太郎氏
熊谷組の創業者である熊谷三太郎氏【拡大】

  • 創業の地である宿布発電所の遺構
  • 施工中の大町トンネル(現・関電トンネル)
  • 大町トンネルの貫通式
  • 法人化のきっかけとなった三信鉄道の建設工事
  • 関西国際空港第2ターミナルビルの国際線拡張(中央より下側の建物)
  • 台湾・台北にある高層住宅「陶朱隠園」

大町トンネルの死闘

 その後も熊谷組の快進撃は続く。高度経済成長期の1956(昭和31)年黒部川第四発電所工事で、ダム建設が予定されている黒部峡谷の奥地に資材を運び込むため、北アルプスを貫く5400メートルの大町トンネル掘削工事を請け負ったのだ。

 ダム工事の成否を決めるこの工事は、当初は順調に進んだが、大町側から1700メートル地点で大量の地下水を内包した大断層・破砕帯に遭遇した。坑内は最大で毎秒660リットルもの出水と土砂に見舞われ、崩落の危機に陥った。地下水は4℃の低温で、作業を阻んだ。排水用のトンネルを何本も掘ったが、効果は限定的だった。

 ルート変更も検討され始めるなか、現場で陣頭指揮をとった熊谷組笹島班の笹島信義は「冬になれば掘れる」と断言し、計画通りの工事継続を主張。実際に排水トンネルの効果と黒部の厳寒で湧水が減少したことで工事可能となり、遭遇から7カ月後、見事破砕帯の突破を勝ち取った。「土木工事は事前に読み切れない要素が無数にある。最後に克服するのは精神力だ」。破砕帯突破を受け、牧田はのちにそんな思いを述べている。この工事の顛末(てんまつ)は木本正次の小説「黒部の太陽」で詳しく描かれ、後に同名の映画が公開された。主演の石原裕次郎が演じた岩岡剛は、笹島信義がモデルだ。

 他のゼネコンと同様、熊谷組も徐々に建築部門が業績を伸ばすようになった。1960(昭和35)年に都道府県会館(東京都千代田区)を完成させ、建築界最高の栄誉となるBCS賞を受賞した。昭和40年代には大阪国際空港ターミナルビルなどを手掛け、大阪万博でも2パビリオン建設した。同時期、地下5階、地上53階建ての超高層ビル新宿野村ビルの建設案件が持ち上がった。浄水場の跡地の現場は地下に複雑な埋設物があり、その移設など多くの難題を抱えていた。当時社長だった牧田は「熊谷組単独でやり抜く」と単独受注を決め、社員は大いに奮起したという。1975(昭和50)年に着工、計画通り3年後に完成を見た。折しも熊谷組創設40周年のタイミングだった。

 一方、土木分野では上越新幹線の中山トンネルを受注。導坑を掘っても数週間で地山が押し出してくる「膨張性の山」で難航を極めた。欧州の最新工法を導入し、山の動きを止めて貫通。業界内で「トンネルの熊谷」の評価を盤石なものとした。その後、本州と北海道を海底で結ぶ青函トンネル工事などにも参加。香港を皮切りに海外事業も本格化し、台湾、東南アジア、欧米、豪州など世界中にネットワークを広げていった。

厳冬を耐え再成長へ

 1980年代はバブル景気を受けて国内外で大型の不動産開発にも進出し、1991年には過去最高となる売上高1兆2000億円を計上したが、その後はバブル崩壊の影響を受け、業績が急速に悪化し、20年にも及ぶ“厳冬の時代”を迎えることとなる。経営危機に見舞われ、金融機関から二度の債務免除、優先株引き受けによる資金援助を受けた。それでも技術の熊谷組への信頼は厚く、その後の国土強靱(きょうじん)化のニーズに応える形で業績を急回復させ、2014年には支援金融機関など向けに発行していた優先株もすべて消却し、再建から成長へのステップを刻み始めた。市場環境の変動も大きく、熊谷組ではまだ確実な成長軌道を描き切れていないのが実情だ。それでも「アンビルド建築」とみられたらせん構造の高層集合住宅「陶朱隠園」を完成させ、また大胆な他社との提携戦略に踏み出すなど動きが活発。不可能を可能にする元気な熊谷組に復帰しつつある。