高論卓説

アフガニスタンの教え子 戦闘続き、平和構築の難しさ痛感

 私どもの日体大も、8月にはキャンパス内にある慰霊碑前で盛大に慰霊式を行う。学徒動員によって、約400人の先輩たちが還らぬ人となったのである。戦争の酷さ、理不尽さと悲しみ、二度と繰り返してはならない。戦後生まれの人間に戦争の実感はないが、これ以上の悲劇のないことだけは知っている。そして、いかなる国家も信用してはならないことも近年学ばされた。私自身が偶然、戦争と関わった結果の教訓である。

 旧ソ連がモスクワでの「平和の祭典」オリンピック開催を1年後に控えていたにもかかわらず、隣のシルクロードの美しい国アフガニスタンに軍事侵攻したため、私の多くの愛する教え子たちがソ連軍と戦うことになったのである。教え子たちとは、レスリングを通じて苦楽をともにした、また、大学の授業で指導した学生たちだ。

 日本教職員組合(日教組)は、かつて「教え子を戦場へ送るな!」というキャンペーンを張っていた。どうも戦場は遠方にあると決めつけ、戦争は近場では起こらないらしい。私たちの居住する地は安全であるが、教え子たちを危険な戦場に送らないようにする。戦争をしない国にするという意味も含んでいたのであろう。

 だが、ソ連軍は10万5000人の兵をアフガンに投入した。1979年12月29日のことだ。78年春にソ連政府の後押しでクーデターが起こり、平和だったアフガンに共産政権が樹立された。すると、敬虔(けいけん)なイスラム教徒である国民たちは、武器を手にして抵抗活動を展開する。私は75年から78年3月までの3年間、国立カブール大学の教壇に国際交流基金から派遣されて立った者だが、教え子たちはムジャヒディン(アフガンゲリラ)となってソ連と干戈(かんか)を交えるようになった。

 ソ連製のアフガン共産政権の雲行きが危うくなったため、政権を助けるための軍事侵攻であった。私は、「教え子を戦場へ送った教師」の一人になってしまったのだが、教え子たちに「武器を取れ」と指導したわけではない。他国による軍事支配を許さないために主権国家の一員として立ち上がったのである。ソ連兵の軍靴で踏みにじられたアフガンでは白旗を掲げる若者はおらず徹底抗戦。

 日教組のスローガンは、まさに平和ボケした日本社会での虚言であり、世界への刮目を忘れていたのだ。アフガン国民の生活の場が戦場と化したのである。戦場は遠方ではなかったため、数百万人の国民たちは同じイスラム教国のパキスタン、イランに難民となって逃避した。

 アフガンには、伝統的な教えであるパシュトーン族のおきて(プクトンワリ)があり、あの大英帝国の侵略さえも許さなかった。イスラム教の「ジハード(聖戦)」となり、アフガン全土が戦場と化した。ソ連兵の死者は3万人。やがて全面撤退したが、ペレストロイカを経て新生ロシアへと転じた。そのロシアもクリミア半島を奪取したが、そのような国家のあることを忘れてはなるまい。

 さて、アフガンの不幸は続く。ソ連撤退後は、アルカーイダが支配するイスラム原理主義のタリバンが政権を握る。9.11以後、米国の支援する民主的な国家が樹立されたが、タリバンとの戦闘がやまず、内戦は40年以上も続く。教え子たちは、既に60歳以上となった。

 ここにきて、米国はタリバンと和平交渉を進展させている。米軍の撤退が実現すれば、半世紀ぶりに平和なアフガンに戻る可能性も出てきた。幾度もパキスタンのペシャワルにあるムジャヒディンの基地を訪れ、教え子たちに協力し、激励してきた者として、「平和」の構築、維持の難しさを痛感するばかりだ。オリンピックボケの日本、大丈夫だろうか。

【プロフィル】松浪健四郎

 まつなみ・けんしろう 日体大理事長。日体大を経て東ミシガン大留学。日大院博士課程単位取得。学生時代はレスリング選手として全日本学生、全米選手権などのタイトルを獲得。アフガニスタン国立カブール大講師。専大教授から衆院議員3期。外務政務官、文部科学副大臣を歴任。2011年から現職。韓国龍仁大名誉博士。博士。大阪府出身。

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