高論卓説

日本人に足りぬ「自分の意見を持つ」 親や大人の子供への関わり方に原因 (1/2ページ)

 今になって蒸し返すつもりはないが、「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」発言と、それに対する批判は、「女性だから会議に参加する」機会の多い私にとって、非常に悩ましい出来事だった。周囲には、「その通り」という男性も多く、「私は絶対そう思われてはいない」という自信もなかったし、むしろ、周囲はそういう目で私を見ていたかもしれないと思うと少しだけ反省もした。

 一方、この発言に腹立たしい思いがしないわけではなかったが、この際、ジェンダーの問題にとどまらず、日本の会議や社会全体の在り方について、本質的に考える機会にすべきとも思った。

 適任者であれば、まったく問題ないのであるが、トップを女性にするとか、理事に女性を増やすなどという表面的な改善ではなく、そもそも、「長い会議」ではなく「短い会議」をよしとするのならば、それはなぜなのか、それでよいのか、本来どうあるべきかなど、一度改めて考えてみるべきであるのだ。

 昨今の「女性要員」の風潮から、さまざまな会議に呼ばれる機会は多い。そこで最も驚くことは、大概にして意見が出ないということである。私がこれまで関わった組織の中で、本当の意味での闊達(かったつ)な議論が行われる会議は、感覚としてではあるが、2割くらいであろう。もちろん、「長い」と思われてしまうような意味のない、まとまりのない意見ではいけないが、場合によっては、会議、つまり話し合う場である限り、まとまりのない意見だとしても、会議を構成するメンバーおのおのの考えを共有しながら議論するということであれば、私は、それはそれで意味があると思う。

 しかし、多くの会議と呼ばれる機会では、だれも発言せず、議論にもならない。ならば、会議ではなくメールなどで連絡すればよいではないかと思うのだが、もっと驚くのは、議事進行係が指名すると、非常に有益な意見が出るのである。

 つまり、意見や考えがないのではなく、自分から意見を言うということに相当の躊躇(ちゅうちょ)があるということだ。それは、過度に目立ちたくない、自分の意見を言うことに自信がない、人前で意見を言うことに慣れていない、自分の意見を言うことによって、(上司に)マイナスの評価をされたくないなど、どれも自己肯定感の低さを感じさせられる理由がある。

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