【九州の礎を築いた群像 西鉄編(9)】路面電車(後編) 「福岡におられんでもよか!」決意の路線廃止 福岡市と泥沼「60年戦争」ついに…

2013.12.17 16:53

 「福岡市内の路面電車の利用者は急速に減少しており、将来も改善が見込めないんです。会社が生き残るため、路面電車をやめたいと思っています…」

 昭和42年5月、福岡・大名の西鉄グランドホテルのスイートルーム。西日本鉄道(西鉄)第9代社長の楠根宗生(1901~1989)は、福岡市長の阿部源蔵(1900~1974年)と向き合うと厳しい表情でこう切り出した。

 西鉄の路面電車は明治43年の開通以来、福岡、北九州両市で市民の生活を支えてきたが、昭和30年代後半からのマイカー普及に加え、路線バス網の拡充に伴い、苦境に陥った。

 中でも痛手となったのは、福岡、北九州両市が38年、渋滞緩和の苦肉の策として電車軌道内のマイカー通行を認めたことだった。

 行く手をふさがれた路面電車は立ち往生した。特に福岡市内線は深刻で、走行速度は平均2割落ち、自転車にさえ追い抜かれた。定時発着は困難となり、36年度に2億6千万人だった年間乗客数は、42年度には2億3千万人に減り、路線バスの年間乗客総数の半数を割り込んだ。この年、路面電車事業はついに赤字に転落し、黒字になる見通しはさっぱり立たなかった。

 西鉄の大黒柱に成長した路線バス事業にとっても渋滞原因となる路面電車は「お荷物」だった。

 そこで西鉄は福岡市内線を縮小・廃止する方針を決めたが、軌道法により市の同意が必要となる。市の担当部局が廃止に難色を示していたこともあり、楠根は市長とのトップ会談にすべてをかけた。

 旧内務官僚で警視庁目黒署長時代に二・二六事件の処置で名を挙げた猛者である阿部は、楠根の「路面電車をやめたい」との発言に激高した。

 「楠根さん、それは無責任ばい。そげんか事ば言いよったら福岡におられんごとなるばい!」

 だが、楠根は西鉄の礎を築いた第4代社長、村上巧児(1879~1963)の秘蔵っ子であり、肝は据わっている。巨体をふるわせながらこう言い返した。

 「そんなら福岡におられんでもよか! 西鉄は他に移るたい」

 両者にらみあい、険悪な空気が流れた。「これはまずい」と思った西鉄企画部長の西川宏(故人)=後に専務=が慌てて割って入った。

 「路面電車をなくす分は当面バスで代行します。ですが、福岡の将来を考えると、市が地下鉄を作れば国の補助金が受けられます。地下鉄と国鉄(現JR)鹿児島線、西鉄天神大牟田線と組み合わせて交通の骨格を作り、残りを路線バスが補完するという総合交通体系の整備が必要ではないでしょうか」

 阿部は「地下鉄の赤字まで市に押しつけるのか」と言いながらも、やや表情を緩めた。

 「それじゃあ楠根さん、中央(政府)はどう考えているのか、一つあたってみらんね…」

 路面電車の廃止と市営地下鉄の建設-。現在の福岡市の交通体系の青写真はここから動き出した。

   × × ×

 「路面電車はもはや時代遅れだ…」

 西川は企画部長就任前から路面電車廃止論を唱えてきた。自動車部計画課長時代、路線バスを拡充しようとする度に路面電車部門から横やりを入れられた苦い経験があったからだ。

 といっても巨額の投資が必要な地下鉄を想定していたわけではない。企画部長時代にまとめた第1次長期5カ年経営計画(昭和40~44年度)では、路面電車を廃止し、高速鉄道と路線バス網が補完し合うような交通体系を提言している。

 だが、マイカー社会の余波は路線バスにも押し寄せてきた。毎年2ケタの伸びを示していた稼ぎ頭のバスの乗客数が40年度に突然減少に転じた。西川は、バス路線の余剰利益を鉄道・バス網拡充の原資に当て込んでいただけに計算が大きく狂った。

 そこで思いついたのが、市営地下鉄構想だった。

 地元経済界からは「地下鉄は西鉄がやるべきだ」との声もあがったが、経営難の西鉄が数千億円もの地下鉄建設費を捻出するのは不可能に近い。

 西川が目を付けたのが、当時の国の補助制度だった。公営地下鉄に限り、運輸相の諮問機関である都市交通審議会(当時)が「地下鉄整備が必要だ」と答申すれば、建設費用の多くが国などから補助された。それでも数百億円規模の負担は生じるが、「市が地下鉄を運営し、利益を償還に充てれば何とかなる」と踏んだのだ。

 だが、当時の福岡市の人口は70万人にすぎず、市単独での地下鉄建設を都市交通審議会が認める公算は小さい。そこですでに100万人を超えていた北九州市とタッグを組み、「北部九州の公共交通問題」として審議会の俎上に乗せた。

 こうして44年3月、都市交通審議会北部九州部会で新しい都市交通体系を考える会合が始まった。両市長のほか、楠根も九州鉄道協会会長として参加した。

   ×××

 だが、西鉄と福岡市の間には審議会の議論を破綻させかねない火種がくすぶっていた。路面電車の「無償譲渡問題」である。

 遠因は明治42年8月、福岡市内線の前身である「福博電気軌道」の設立にさかのぼる。

 創業者である福澤桃介(1868~1938年)らは路面電車敷設を急ぐあまり、当時の福岡市長、佐藤平太郎(1861~1922)の求めに応じ、「事業開始の50年後、すべての設備を無償で福岡市に譲渡する」という契約を市と交わしてしまった。

 それを知った他の出資者は「それじゃあ、市が丸儲けだ」と猛反発した。福澤も思い直して契約解消を求めた。福岡市側も「このままでは開業が危ぶまれる」と考え、これに応じたとされる。

 ところが、開業から50年後の昭和35年になると福岡市議会の一部議員が「契約は有効だ。路面電車を譲渡せよ」と要求し始めた。西鉄は戦前、戦中に統廃合を繰り返した上、大戦末期に福岡市が焼け野原となったこともあって契約書は見つからない。「返せ」「返さない」との不毛な応酬がしばらく続いた。

 44年、都市交通審議会で議論が始まると再び市議会が無償譲渡を求めて騒ぎ出し、ついには「無償譲渡されるまで議論に加わるな」という要求を市長の阿部に突きつけた。

 このころ、すでに路面電車事業は慢性赤字に陥っており、市にとっても無償で譲り受けるメリットはなかったが、阿部が「要らない」と言えば、市議会はますます紛糾しかねない。

 「このまま紛糾が長引けば、審議会は前に進まず、地下鉄計画は頓挫してしまう。西鉄はいつまでも路面電車を抱え込むことになる…」

 楠根の後を継いだ第10代社長、吉本弘次(1912~1990)はこう考えて市との和解に動いた。西鉄が和解金1億5000万円を市に支払う代わりに無償譲渡契約は消滅させる-。45年8月23日、吉本と阿部はこの内容で和解協定を結び、福岡市内のホテルで調印式を開いた。

 「60年戦争」と呼ばれた泥沼の抗争にピリオドを打った意義は大きかった。審議会は議論を加速させ、昭和46年3月11日、「高速鉄道整備と合わせて路面電車を順次廃止すべきだ」という満額回答の答申を出した。

 答申に基づき、福岡市は市営地下鉄を、北九州市はモノレールをそれぞれ建設することを決定した。これを受け、路面電車は、福岡市では48年から54年にかけて全25・8キロが廃止された。北九州線も55年から徐々に姿を消し、平成12年までに全44・3キロが廃止された。

 市営地下鉄が天神-室見間で開業したのは昭和56年7月26日。楠根・阿部会談から14年が経っていた。

   × × ×

 路面電車をめぐる福岡市との“抗争”は廃止後に再び勃発した。

 廃止された路面電車の軌道敷跡は舗装され、道路に変わったが、この部分はもともと西鉄の所有地だ。西鉄は国に買い取りを求めたが、同様のケースは全国にあり、前例を認めると巨大な財政負担が生じるため、国は拒否した。福岡市も「すでに道路の一部だ」と無償譲渡を要求したため、西鉄との関係は再び険悪となった。

 昭和57年12月、ついに西鉄は「西鉄所有地を無断使用している」として福岡市を相手取り、5億2500万円の賃料相当額の支払いを求める訴訟を福岡地裁に起こした。

 裁判は長期化の様相を呈した。昭和60年6月、第12代社長に就任した大屋麗之助(90)は悩んだ。創業以来最大のプロジェクトとなる西鉄福岡(天神)駅界隈の再開発「天神ソラリア計画」を温めていたからだ。

 「ソラリア計画を円滑に進めるには福岡市の協力は欠かせない。訴訟を引きずっていては動くものも動かなくなる。社長交代した今が決断の時だ」

 こう考えた大屋は、福岡市長の進藤一馬(1904~1992)、助役でその後市長となる桑原敬一(1922~2004)に極秘裏の会談を持ちかけた。

 「訴訟を取り下げ、軌道敷跡は国に無償譲渡しましょう。代わりに再開発には全面協力してほしい」

 進藤も「西鉄と険悪な関係が続くと市政運営に支障がある」と考えていただけに大屋の提案は渡りに船だった。両者は固く握手を交わした。

 大屋は61年1月、ソラリア計画「福岡駅地区再開発基本概要」を大々的に発表した。同年9月4日、西鉄は正式に訴訟取り下げ合意書に調印し、4年間続いた争いは決着した。

 進藤も、大屋との約束を違えず、プロジェクトに全面協力した。西鉄は再開発エリアを分断していた長さ4メートルの市道を社有地との交換で譲り受け、市から容積率引き上げの特例を受けた。この結果、本来の倍の800%の容積率が認められ、17階建てのソラリアプラザなど3棟を建設、天神の街並みを一変させた。

 ソラリア計画を機に天神には三越やパルコ、ロフトなどの大型商業施設が次々に進出した。天神西通りにはブランド店がずらりと並び、天神は九州最大の繁華街の地位を不動のものにした。

 西鉄もまたローカル電鉄・バス会社から「街づくり企業」に飛躍することができた。歴史に「もし」は許されないが、大屋と進藤の極秘会談が決裂していたならば、西鉄は赤貧にあえぎ、天神もうらぶれていたかもしれない。(敬称略)

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