日本の通信技術“世界初”だけでは通じず PHS、キャプテン…営業戦略も重要

2015.4.23 06:34

【通信大競争 30年攻防の行方】(3)

 1995年8月16日の朝、第二電電(DDI)副社長の千本倖生(72)は青ざめた。自ら事業を立ち上げて7月に始めたばかりのPHSサービスが停止し、通話できなくなったためだ。基地局の数に対し制御するソフトの能力が追いつかず、電波の同期が取れなくなったのが原因だ。千本は必死で修復作業を指揮したが回復したのは5日後だった。

 稲盛和夫(83)に請われてNTTを辞め、DDIの創業に携わった千本にとって、PHSは携帯電話に対抗するサービスの柱だった。全国展開の矢先につまずいたものの、PHSはその後、音質の良さや割安感から契約数を伸ばし、日本発の通信規格として海外普及も期待できる「次世代通信技術の本命」ともてはやされた。

 パケット通信やカメラ付き端末、スライド式キーボード装備のスマートフォン…。いずれもPHSが携帯電話に先行して実用化した技術だ。自販機など機器同士が直接通信する「組み込み型機器」の分野でも、割安なPHSが先陣を切った。一時はDDI子会社のDDIポケットのほかNTTパーソナル、アステルグループの地域会社約30社が携帯電話の対抗サービスとして売り出した。

 携帯電話と明暗

 しかし、携帯電話の普及が進み、PHSの隆盛は続かなかった。郵政省(現総務省)は当時、2010年にPHS契約数が3300万件に達し、携帯電話並みに普及すると予想した。行政の期待の高さが分かる数値だ。しかし結果はPHSが375万件に対し、携帯電話は1億1950万件と大きく明暗を分けた。

 後にDDIポケット会長になる木下龍一(74)は「携帯との競争に巻き込まれないよう独自技術を次々と開発したが、独自マーケットは確立できなかった」と振り返る。

 通信自由化後に生まれたPHSは20年間で携帯電話に駆逐されつつある。1日付でソフトバンクモバイルに統合された旧ワイモバイルは、昨秋から断続的にPHS契約者をスマホに移行するキャンペーンを実施している。1997年9月のピーク時に700万件を超えた契約数は現在、500万件程度にまで減少した。

 長年、PHSを利用してきた総務審議官の桜井俊(61)は「外でも使えるコードレス電話がコンセプトだったが、携帯電話には太刀打ちできなかった」と打ち明けた。

 スマホの“先駆け”

 大きな期待を受けながら、勢いを失った独自技術が通信分野では少なくない。電話回線を通じて画像表示できる「キャプテン」システムは、民営化前年の1984年に商用サービスを始めた。「世界初の技術」と評されたが、サービスは広がらず2002年に終了した。

 NTTドコモが1999年に商用化した携帯電話向けインターネット接続サービス「iモード」も世界初だった。当時社長だった大星公二(83)は「『ウォークマン』からヒントを得て、携帯に音楽や情報やゲームを流せばもうかると考えた」と開発のきっかけを説明する。

 ドコモは大ヒットしたiモードを海外進出の武器に位置づけた。だがITバブル崩壊で1兆円を超える損失を被り、ドコモは北米市場から撤退した。その後、iモードにヒントを得た米アップルや米グーグルのスマホ事業は、世界規模に拡大した。

 国内では携帯電話に押されたPHSだが、2006年には世界のPHS契約数が1億件を超えた。ほとんどは固定電話網の代替として普及した中国だが、市場はタイやベトナム、台湾にも拡大した。売り込んだのは郵政省移動通信課長の寺崎明(63)=現NTTドコモ副社長=だ。

 当初、中国政府との交渉は暗礁に乗り上げていた。寺崎は共産党青年部の幹部と面会し、その影響力を利用して地方都市に次々と導入を進めた。寺崎は後に、劣勢だった日本方式の地上デジタルテレビ規格を中南米を中心に10カ国に売り歩いた。「霞が関最強の商人」(同省幹部)との異名を持つ。

 その後、中国政府はPHSの電波を携帯電話に配分したため、海外のPHS市場は縮小した。“世界初”という技術力だけで、海外市場に日本発のビジネスを普及させるのは困難だ。技術に加え、特色あるサービスに踏み込んだ営業戦略が、その後の優勝劣敗を左右する。(敬称略)

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