【地球を掴め国土を守れ】技研製作所の51年(10)「防災企業たるは、高知のDNA」
昭和21年12月21日午前4時19分、紀伊半島沖を震源とする地震が起きた。「昭和南海地震」である。
技研製作所の北村精男(あきお)は昭和15年生まれ。当時、高知市の東隣の赤岡町(現在の高知県香南市)の生家にいた。
「ふすまがパタパタと倒れ、父親に抱えられて裏山に逃げたのを鮮明に覚えている」と振り返る。
この地震は、南海トラフで発生する地震としては比較的小規模とされる。しかし、東海から四国にかけて死者行方不明者は1300人に達し、高知市や宿毛(すくも)市などでは地盤が沈下、堤防が壊れるなどして、浸水した。
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高知は古来、南海トラフの地震に繰り返しさらされ、台風の通過が多い「台風銀座」として風水害に見舞われるなど災害常襲地帯だ。そもそも「高知」の語源は「河中(こうち)」とされるが、水害を想起させるとして、改名された経緯がある。
北村は自らの人生を振り返って、「わが社の防災企業たるは、高知のDNAだ」という。だからこそ、高知発の技術普及にこだわるのだ。
その高知を切り開いた先達として、北村が名前をあげるのは、土佐藩家老の野中兼山(1615~64年)である。その功績は幕藩体制が確立しつつあった江戸初期において「政治は土佐にあり」と全国の範となったとされる。
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作家、司馬遼太郎は「街道をゆく 因幡(いなば)・伯耆(ほうき)のみち、檮原(ゆすはら)街道」で、「兼山施政三十年のあいだにおこした用水工事は(中略、藩全域で二十二カ所におよび)驚歎(きょうたん)にあたいする」と記し、地元高知の土木関係者が現代においても、「兼山先生」と呼び、敬愛していると紹介している。
兼山の実践の根本は、人間は自然の秩序に従いながらも、自然の利害を人間的に調整することが人間社会の発展につながるとの考え-とされる。
一方、北村は「文化を高めてこそ人間」と考える。そのためには、自然の振る舞いに対して、「安全安心」を確保しなければならない。ただし、「安全安心」を担保する技術は、自然(地球)と真摯に対話し、誰もが納得する科学的根拠をもつべきだ。また、実現(施工)にあたっては、人間の生活を邪魔しないように、日々練り上げられていくものであるべきだという。
兼山の軌跡と通底する北村の実践と思想。北村はそれを「建設は日々新たなり」の言葉に込め、技研製作所の理念としている。
=敬称略
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首都直下、南海トラフの地震や多発する水害の危機が迫る中、独創的な工法が注目を集める「技研製作所」は創業50年を迎えた昨年、東証1部上場を果たした。この連載では、北村精男氏が一代で興した同社が、世界企業として発展してきた半世紀を追う。
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