【地球を掴め国土を守れ】技研製作所の51年(18)1号機が完成「これはいけるぜよ」

 
サイレントパイラー1号機。後継機よりかなり大型だ

 昭和50年7月、無振動・無騒音の杭(くい)打ち機「サイレントパイラー」の1号機が完成した。技研製作所(当時、高知技研コンサルタント)社長の北村精男(あきお)が、「高知のエジソン」の異名をもつ垣内保夫のもとを訪れてから約2年の歳月がたっていた。

 実験は高知市内で行われたが、北村はこのときのことを「最初の実験場所が地盤の硬い場所だったら、失敗していただろう。そうしたら、その後の開発をあきらめていた可能性が高い」と感慨を込めて振り返る。

 実験場所は、最初の事務所が台風の被害にあったのち移転した新社屋の隣の畑。そこは安定したシルト地盤(軟らかい堆積層)だった。それが奏功した。

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 垣内(当時、垣内商店)の工場から運び込み、あらかじめ打ち込んでおいた3本の杭にサイレントパイラーをセットした。北村と垣内らが固唾(かたず)をのんで見守るなか、機械を製造した垣内商店の社員、西薫弘が杭を圧入するバルブ・レバーを引いた。

 杭は音も振動もなく、滑り込むように、地面の中に吸い込まれていった。

 関係者から、安堵(あんど)とも感嘆ともいえるため息が漏れた。その時、そばで見ていた畑の所有者の高橋正一郎が発した言葉を、北村は忘れることができない。

 「北村さん、こりゃ良(え)いもん造ったのう。これはいけるぜよ!」

 関係者は、「圧入原理」の存在が実証された実験の成功を心から喜んだ。が、前述したように、実験場所の地盤が軟らかったことが実験成功の決め手だった。

 のちに別の場所で、杭を打ってみたところ、抵抗の大きい地盤だったため、打てば打つほど、機械は傾いていったのだから。

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 工事現場の地盤の質は千差万別で、実際にやってみなければ分からない。しかし、地盤との格闘を避けていたのでは、サイレントパイラーを使用する工法は成り立たない。

 その後の機械の開発・改良では、地盤との絶えざる格闘が、現場での経験と実証実験による分析を通じて次々とサイレントパイラーの設計に具現化されていき、他の追随を許さない強みとなっていく。

 「地下の可視化こそわが社の使命」。北村の言葉はそのことを象徴し、のちに技研製作所が工場をもたない開発専業の道を選び、インプラント工法など新工法を次々生み出していく根本ともなっていくのである。

=敬称略

 首都直下、南海トラフの地震や多発する水害の危機が迫る中、独創的な工法が注目を集める「技研製作所」は創業50年を迎えた昨年、東証1部上場を果たした。この連載では、北村精男が一代で興した同社が、世界企業として発展してきた半世紀を追う。