無謀な「朝鮮出兵」で豊臣政権“内部分裂”…機能しなかった「QCサークル」 (3/6ページ)

2014.11.10 06:49

豊臣政権では(右上から)秀吉、石田三成らと(左上から)加藤清正、黒田長政、福島正則、黒田官兵衛らが対立する構図が生まれた

豊臣政権では(右上から)秀吉、石田三成らと(左上から)加藤清正、黒田長政、福島正則、黒田官兵衛らが対立する構図が生まれた【拡大】

  • 大阪城二の丸の豊國神社に建つ豊臣秀吉公銅像
  • 秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)後、敵軍の侵入を防ぐために設置された聞慶の嶺南第一関門
  • 朝鮮出兵の拠点となった名護屋城跡。前方には玄界灘が広がる=佐賀県唐津市
  • 熊本城の加藤清正像

 秀吉の責任

 明国に行くにはまず朝鮮というわけだが、緒戦は予想以上の戦果をあげる。天正20(1592)年4月12日、釜山に上陸して翌日から攻撃を開始すると、5月3日に首都・漢城を陥落させている。

 朝鮮国王も逃げ出したため人心は国王から離れ、秀吉軍への協力者が続出したという。ここで勢いに乗る秀吉軍は「漢城の守りを固めるべき」とする官兵衛の意見を無視し、前進してしまう。

 ここに大きな落とし穴があった。戦線が伸びきる中で海上が敵国に封鎖され、武器・食糧の補給もままならない状態に陥る。戦況もゲリラのしつこい抵抗に遭い、行き詰まって疲弊する。

 補給、いわば後方支援といえば三成の専門だったはず。ところが、秀吉や淀君に取り入ろうとする方に気を取られ、2年間もほぼ放置状態に。

 この戦いで亡くなった約5万人の秀吉の兵は戦死というよりも病死、餓死がほとんどだった。しかも傷を負っただけで何の成果もないので、功を挙げても恩賞もない。

朝鮮出兵は明らかに秀吉の指導責任

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