秀吉の責任
明国に行くにはまず朝鮮というわけだが、緒戦は予想以上の戦果をあげる。天正20(1592)年4月12日、釜山に上陸して翌日から攻撃を開始すると、5月3日に首都・漢城を陥落させている。
朝鮮国王も逃げ出したため人心は国王から離れ、秀吉軍への協力者が続出したという。ここで勢いに乗る秀吉軍は「漢城の守りを固めるべき」とする官兵衛の意見を無視し、前進してしまう。
ここに大きな落とし穴があった。戦線が伸びきる中で海上が敵国に封鎖され、武器・食糧の補給もままならない状態に陥る。戦況もゲリラのしつこい抵抗に遭い、行き詰まって疲弊する。
補給、いわば後方支援といえば三成の専門だったはず。ところが、秀吉や淀君に取り入ろうとする方に気を取られ、2年間もほぼ放置状態に。
この戦いで亡くなった約5万人の秀吉の兵は戦死というよりも病死、餓死がほとんどだった。しかも傷を負っただけで何の成果もないので、功を挙げても恩賞もない。