箕輪城(群馬県高崎市) 徳川関東移封で初の城主に
静岡古城をゆく 井伊家躍進の礎天正14(1584)年10月、徳川家康は豊臣秀吉に臣従。18年2月からの小田原攻めに際しては東海道沿いの城を秀吉に差し出し、真っ先に出陣して天下取りの総仕上げを手助けした。この時も井伊直政は先鋒(せんぽう)を任されている。
『家忠日記』には「井(直政)侍従敵丸のりつくし候」とある。小田原城の出城「笹之丸曲輪」に夜襲をかけ、その名をとどろかせた。城内に攻め入った唯一の武将とされる。直政が「侍従」と明記されていることは、秀吉・家康間の交渉、交際などを取り持つ“外交官的な立場”にあった証しで、すでに四天王の一角に位置付けられていたと思われる。
秀吉からも大政所の護衛や政治的手腕を高く評価され、豊臣姓を与えられており、信頼は厚かったようだ。
長期籠城の北条氏は、天正18年7月に開城し、秀吉は家康に北条氏旧領である関東への国替えを命じた。これに伴い軍功を挙げた直政は、西上野箕輪城に徳川家臣最高の12万石の領地を与えられた。ちなみに先輩格の本多忠勝と榊原康政は10万石だった。直政が初の城主となり、昇竜のような躍進には何かあったのか…。自ら城の普請指示を命じているように、“黒幕”として秀吉が動いていたようだ。
箕輪城は古来、西上野最大の豪族、長野氏の居城であった。永禄期(1558年~)になると、南から北条、北から上杉、西からは武田が押し寄せ、永禄9年9月、武田信玄が周辺の支城を相次いで落とし、本城の長野氏業は自刃して落城した。武田氏滅亡後は北条氏の支配下になり、天正18年、秀吉の小田原攻めに際して再び落城。巨大勢力が拮抗(きっこう)する境目の城であったことから、すさまじい戦いが繰り広げられたとされる。
現在ある箕輪城跡は直政期のもので、南北1・2キロと西上野最大の規模。主要部は幅15メートル以上の空堀が三重に構築されている。多重化した馬出曲輪と虎口(こぐち)周りの石垣が見どころ。国史跡に指定され、日本100名城の一つ。
(静岡古城研究会会長 水野茂)
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