【静岡古城をゆく 井伊家躍進の礎】井伊直孝出生地(焼津市中里) 幕府を支える“名門”継承

 
誕生屋敷地には「井伊掃部頭直孝朝臣産湯之井」の石碑がある=静岡県焼津市中里

 「徳川四天王」といわれ筆頭まで大身した井伊直政。没後の家督は長子・直継(後の直勝)が継いだが“病弱のため”家康の命によって次子・直孝が井伊家の2代目となった。直孝は正室・松平康親の娘(家康養女)の東梅院の子でなく、東梅院の侍女(伊具徳右衛門の娘)との間に生まれた男子であったという。

 直孝の出生地について、江戸幕府の公式見解である『寛政重修諸家譜』によると「駿河国藤枝に生る」とある。ところが、江戸時代の地誌『駿河志料』では、中里村(静岡県焼津市中里)の旧家「村松五郎右衛門の家にて誕生、よって此家の井に産湯の井、誕生屋敷と云」と記してある。この地には「誕生屋敷」と直孝の氏神である「中里若宮八幡宮」が建つことから、後者の説が有力であろう。

 現在の誕生屋敷地は県道に面しており、遺構は消滅しているが、「井伊直孝産湯の井」の石碑が残されている。屋敷から西へ約200メートルの地に若宮八幡宮が建ち、寛永6(1629)年の棟札には、直孝が氏神として再建したことが明記され、焼津市の指定文化財になっている。

 慶長19(1614)年、大坂冬の陣では兄・直継に代って出陣し、真田信繁(幸村)が構えた「真田丸」を家康の命なしで攻め、多くの戦死者を出す失態を犯す。軍紀違反による処罰は免れなかったが、家康は叱責せずかばったため、「家康の隠し子」との噂も流れたという。翌20年の大坂夏の陣では先鋒を務め、木村重成、長宗我部盛親を破る戦功を挙げている。

 直孝は父親譲りの生真面目ぶりで信頼も厚く、秀忠、家光、家綱の3代に仕えた。その子孫は彦根藩主を継承し、7人の大老を輩出するなど、江戸幕府の屋台骨を支えた。一方、直継は安中(上野)に国替えとなり、直勝と名を改めた。2代目子孫は西尾(三河)-掛川(遠江)-与板(越後)の各藩主として存続した。

 (静岡古城研究会会長

水野茂)