パパ編集部員の育休エブリデイ

(5)2人育児に初めは戸惑い…失敗と反省を繰り返し、家族全員で成長

SankeiBiz編集部

 昨年5月、我が家に第2子となる男児を迎え、家庭を取り巻く環境は一変した。乳児を育てることに関しては長女の時にひと通り経験済みだが、赤子と2歳児を同時に育てるとなると「長女の時と同じ要領で…」とはいかなくなる。とくにお姉ちゃんとなった娘の成長に伴う変化は著しく、私の中では接し方や問題が起きた時の対応で難儀することが多々あったが、たくさんの経験を糧に家族として大きく成長できた貴重な6カ月でもあった。(文・写真 大竹信生)

 長男の誕生で夫婦にとって初めての経験となったのが、2人目育児によくある娘の「赤ちゃん返り」だ。「長男の授乳中に娘がおっぱいを触ろうとする」「なぜか長男の肌着を着たがる」「絶えず指しゃぶりをする」など、とにかく赤ちゃんの行動を真似したがった。授乳を邪魔された妻がピリピリしたり、肌着やおもちゃを奪われた長男が泣き始めるなど家族が振り回されることが多く、私も「赤ちゃん返りにいちいち対応するのが面倒くさい…」とイライラすることが急激に増えた。

 娘の会話力がメキメキ成長

 一方で、半年間で娘のコミュニケーション能力が飛躍的に向上したことも、家庭内に様々な変化をもたらした。育休を取得した当初(そのとき娘は2歳0カ月)は、単語を一つ、二つ繋げて発するだけだったのだが、それから3~4カ月の間に、「パパ、ちゃんとシマシマ(=横断歩道)の上を渡ってね」「電気を消したら絵本が読めないでしょ」などと立派な文章を話せるまでになった。娘の目を見張る上達の早さには私たち夫婦も幾度となく驚かされた。

 少し話が逸脱したが、娘の会話力が向上したことで、それまで私が理解することに苦労した事柄、例えば娘が「なぜ嫌がるのか」「なぜいたずらをするのか」「何がきっかけで機嫌を損ねたのか」といった難解な感情も、子供が自ら理由を説明できるようになったことで「だから嫌だったのか」などと合点がいくようになった。

 子供との接し方で失敗の連続

 生活に変化が起きれば、自然とあらゆる困難やトラブルも発生しやすくなる。そして、それらをいかに乗り越えるかが家族にとって非常に大切になってくる。

 娘の会話力の向上とともに自我が芽生えてくると、「今は○○が食べたい」「この服は着たくない」と明確な意思表示や主張をするようになった。 意思の疎通が図れるようになったとはいえ、相手は話し合いや理屈が通じない2歳児。「動物園に遊びに行くから服を着なさい」、「イヤだ。オムツだけでいいもん!」といった蒟蒻(こんにゃく)問答が日常茶飯事となり、ときにストレスとなった。

 こんな時は、私よりも子供を上手にあやすことのできる妻から学ぶことが多くあった。妻が「ゾウさんのお洋服を着て行ったら、動物園の象さんたちが喜ぶかもよ?」と語りかけるだけで、「ゾウさんのお洋服、見せに行く!」と目を輝かせ、あっという間に“交渉成立”となる。お風呂に入りたがらない時も、「アヒルさん(のおもちゃ)がお風呂で待ってるよ? 寂しいって泣いちゃうよ?」「じゃあ入るね。だって入らないとアヒルさんが泣いちゃうもん」といった具合で、それまでの私と娘の押し問答がウソのよう。「子供をその気にさせるのが上手いなあ」と何度も舌を巻いたものだ。一筋縄でいかないと半ば強引に解決しようとして、とめどない悪循環に陥る私とは大違いだ。

 子供の話をしっかりと聞いてあげることの大切さも、妻から教わった。私は子供が機嫌を損ねていることに気がついていたとしても、「時間がないから早くして」「いまは忙しいから」と会話のドアを一方的に閉めてしまうことがあったが、これでは子供の不満は解消されない。一方、妻は子供と正面から向き合い、対等な立場と聞く姿勢を示すことで「娘が何を求めているのか」「何を伝えたいのか」といった子供からのメッセージを全力で受け止め理解することに努めていた。

 子供の意見を尊重する大切さ

 そういえば、私の中で書くのが躊躇されるほどの苦い思い出がある。遊びから帰るある日、自ら三輪車をゆっくり押しながら、なかなか家路につこうとしない娘に「いい加減にしなよ!」と強い口調で叱りつけてしまった時があった。しかもイラついた勢いで、三輪車をドカンと叩いてしまった。歩みをとめた娘はその場でうつむくと、まだ覚えたての言葉で「パパ、怒らないで…」と小さくつぶやいた。当然、娘は怖かったはずだが、私もこの言葉が結構ショックだった。「ひどいことをしてしまった」と-。この出来事のあとは、娘の寝顔を見ながら思い出しては「ごめんね…」と謝る日々が続いた。娘はなぜ帰りたがらなかったのか-。まだ遊び足りなかったのか-。その行動には娘なりに何か意図があるはずなのだが、当時の私にはその気持ちを理解してあげようという意識がすっぽりと欠けていたのだ。

 これらの経験を通じて子供との接し方、コミュニケーションの取り方を意識するようになると、子供がやりたいことを尊重するようにもなった。たとえそれが親にとって不都合な事でもだ。私は日課である洗濯物を干す時に、娘が毎回のように「一緒に干したい」と言い出すのが嫌だった。悪い言い方をすれば足手まといになるからだ。だからその都度、「パパがやるから大丈夫」と断っては、娘を泣かせてしまっていた。しかし次第に、子供の「やりたい」という気持ちをないがしろにすれば、自主性を摘み取ってしまい、そのうち子供の興味や意欲を削いでしまうのではと危惧するようになった。

 私の態度の“軟化”もあり、子供がやりたいことがあれば、満足のいくまでやらせてあげるようになった。そして気づいたのだが、別に子供も最後までやり遂げたいわけではなく、自分の中で満たされたり飽きてしまえば「もう終わり。洗濯物バイバイ!」とどこかへ行ってしまうのだ。家事を急ぐ気持ちも「数分だけ我慢してやらせてあげれば大丈夫」と、いつしか心にゆとりが持てるようになった。

 多事多難の毎日だったが、辛抱強く接してあげること、何事も気長に待ってあげることの大切さをたくさん学んだ気がする。大人と子供では理解力や判断力、動作速度が違うし、一つひとつの行動に包み込むような優しさや丁寧さが必要とされるのだ。

 親も一緒に成長

 今こうして振り返ると、育休が始まった当初は慣れない環境にやや浮足立っていた。当コラムの2回目でも取り上げたように、夫婦ゲンカも頻発した。環境の変化でトラブルもたくさん出てきたが、夫婦で立てた改善策は時として単なる妥協案に過ぎず、必ずしも家族全員にとって理想的な毎日をもたらすわけでもない。それでも問題や課題に正面から向き合い、間違えた時は自らを省みて、改善を図る意味や目的を模索しながら困難を乗り越えた時に、家族全体の成長が待っていると考えている。

 父親として欠如している部分を自覚して、自らの行動や過ちをただすようになったのは、こんな私でも育児を通して少しは成長できたということなのだろう。そこは妻もしっかりと見てくれていたようで、「前は子供を遊ばせながらチラチラとスマホを見ていたけど、最近は本当にやらなくなったよね」と褒められて少し嬉しくなった。

 子供の「イヤイヤ期」やときに理解不能な「主張」など、私たち親にとって不都合だと思えることも、その多くは子供の成長過程に見られる当たり前の行動だ。ストレスを感じることも多々あるけれど、結局は子供の成長を実感できる場面を共有することが、私たち夫婦にとって一番の喜びであり幸せをもらえる瞬間だ。だから、自分たちももっと頑張って子供たちと一緒に成長しようと思えるのではないだろうか。

 次回は最終回。半年間の育休を振り返り、私なりに総括したいと思います。

 この連載は原則として隔週更新です。【パパ編集部員の育休エブリデイ】のアーカイブはこちらから。