【父の教え】加古総合研究所・鈴木万里さん  父・かこさとしさん「子供は正直だから」

 
「子供たちには、たくさんいい絵本と出合ってほしい。それが父の絵本だったら、なお嬉しいですね」と話す鈴木万里さん(加藤聖子撮影)

 多くの人が一度は目にしたことのある絵本「だるまちゃんとてんぐちゃん」や「からすのパンやさん」、「どろぼうがっこう」-。鈴木万里さん(62)は、父である絵本作家、かこさとしさんの遺志を継ぎ、講演や展覧会、未発表作品のとりまとめなど、精力的に活動している。先月には、かこさんが孫を思い、つづっていた詩をまとめた、かこさん初の詩集「ありちゃん あいうえお」(講談社)が出版された。「父が作品を描いた背景や、作品に込めた思いなど広く伝えていけたら」

 昭和32年、鈴木さんは神奈川県でかこさんの長女として誕生した。

 幼い頃の父は、化学会社「昭和電工」に研究者として勤務する傍ら、セツルメント(セツル=工場労働者などの生活を助けるボランティア)で子供会活動に取り組んでいた。

 週末はいつも、セツルに集まる子供たちにオリジナルの紙芝居や、幻灯(当時のスライド)を見せに出る日々。よその子供のために多くの時間やお金を費やしていた。そんな父の姿に、「それが普通だと思っていました。むしろ、会社もセツルの場所も徒歩圏内だったから、いつも家族一緒に夕食を食べられた。多忙なお父さんも多い時代に、恵まれていたと思います」と振り返る。

 セツルの子供たちは、面白い作品だと集まって笑顔で聞いてくれ、面白くない話だと思ったら、あっという間にどこかへ行ってしまったという。「子供は正直だから」-。戦争で大切な人やものをなくし、大人たちが戦争前後で掌を返す姿を見てきた父にとって、子供に尽くすことは心の救いとなったようだ。

 また、父は常々「私の先生は子供たち」と言い、セツルの子供たちを観察していた。その経験は作品や子育てにも生かされている。

 例えば、鈴木さんが小学校に入学する前のこと。近所に一緒に登校する人がいなかったが、それを知った父は、1人で登校できるよう、一緒に通学路を下見してくれた。

 「それで今度は、予行演習で自分1人で学校に行くように言われ、私は空のランドセルを背負って学校に1人で歩いていって…。でもその時、実は父と妹がこっそり後ろからついてきて隠れて見ていたらしいんですね。予行演習や下見なんて発想が研究者らしくって」。子供をよく見ているからこそ、細かなことにも気付き、見守ってくれた。

 他にも、折に触れ、父が語っていた言葉が自分の心のよりどころとなっていることを感じる。日本人はなぜ桜が好きか、目上の人に返事をいただいたら必ずそれにも返信すること、本のカバーのかけ方-。子供には一見難しそうなことでも、さりげなく日常の中で教えてくれた。

 「父の作品は、環境問題や戦争、多様性などを考えさせるものも多く、何十年も前のものを今読んでも、はっと気付かされる何かがある。子供たちに、難しいことでも分かるように伝えていく、その才能がまれな人なんだと思います」

 父が70代後半になると、仕事や日常生活も手伝うようになった。亡くなるまで、誰よりも長くそばにいたことで感じたのは、父の子供に対する優しさはもちろん、研究者らしい観察眼の鋭さだ。残されたものを読み解き、父の思いを伝え続けねばと思っている。

 間もなく父が亡くなって1年。「今でも、大切な仕事の日にぱっと雪が舞ったり」。何か合図してるのかしら、と父がそばにいることを感じることもある。

 「絵本は単なる物ではなく、心の安定剤なんです。子供たちが、小さい頃にいい絵本と出合って心豊かな大人になってほしい」

 思いを受け継ぎ、今日も全国を駆け回っている。(加藤聖子)

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 ≪メッセージ≫

 あなたが残したたくさんの作品、そして生き方が、私にとってのかけがえのないメッセージであり、道しるべです。

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【プロフィル】かこさとし

 かこ・さとし 大正15年、福井県生まれ。絵本作家。本名・中島哲(さとし)。東大卒業後、昭和電工に研究者として勤務。退職後に専業の絵本作家となり、「だるまちゃんとてんぐちゃん」「からすのパンやさん」など、数多くの名作を手がけた。平成30年、92歳で死去。

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【プロフィル】鈴木万里

 すずき・まり 昭和32年、神奈川県生まれ。清泉女子大卒。同大卒業後、母校清泉女学院の中学・高等学校で英語教師として11年間勤務。平成15年から加古総合研究所に勤務し、父の仕事を支え続けた。現在は夫とともに作品の著作権管理のほか、講演活動などを行っている。