【ゆうゆうLife】家族がいてもいなくても(598)いまだ会わざる友
冬の間は、家の奥の部屋にこもるようにして仕事をしていたけれど。そろそろ夏が始まったので、仕事の場所をキッチンの食卓に移した。
パソコンの画面から目を離し、顔をあげると、ガラス戸越しに光に満ちた明るい庭がいつでも見渡せるからだ。
その庭が日ごとに変化していく様子が楽しい。
今は、初夏の柔らかな緑の中に際立つ真っ白なうつぎの花が主役だ。周りには、名の知らない濃いピンクの花と薄紫の楚々(そそ)とした花があちらこちらに咲いている。その思い思いの咲き方が、まるで自由を謳歌(おうか)しているようで好ましい。
コミュニティー内には5つの棟があり、それぞれ十数戸の家が庭を囲むように建っている。
庭は住む人たちがそれぞれに手をかけているのだけれど、いずれもその棟の住人の個性や好みが反映しているようで面白い。私は、各棟の庭巡りを楽しんでいるけれど、庭づくりには自信がないので、達人たちにお任せしてただ眺めているだけ。そのわが棟の達人が言う。
「実はね、あなたの部屋が、この庭を眺める特等席なのよ」と。
確かに、どの花も陽の光が一番そそぐわが家のキッチンの方に向かって咲いているではないか。
言われて初めてその特権に気づき、今は、目覚めるとともにカーテンを開け放ち、庭を眺めながら食事をするようになった。
今朝は、このあいだまで白い小さな花を咲かせていたブルーベリーの木に実がぎっしりとつき始めていることに気付いた。昨夏は、毎朝このブルーベリーの実を摘んで、ヨーグルトに入れて食べていた。
3本もあるこの木は、私の家の先住者の置き土産。豊かに実るこの実は、彼女の遺志を受け継ぐ隣人の手でまわりに配られる。他に、庭にはバジルもパセリもミニトマトもあるので、夏のサラダは俄然(がぜん)、豊かになる。そんなことがいちいち無性に嬉(うれ)しかった。
でも、1年もたてば、こういった感動は薄れて、ここの暮らしで味わういろんなことが日常になるのだろう、と思っていた。けれど、庭は日々姿を変え、常に初々しい新鮮な喜びを与えてくれる。
食卓に頬杖(ほおづえ)をつき、庭を眺めていると、出会うことのなかったブルーベリーの主も、同じようにこの庭に癒やされて暮らしていたのだろうなあ、と懐かしい友のように感じられてくる。(ノンフィクション作家・久田恵)
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