他人の相談にのることが昔から多い。今から考えると、若い時は相手の人生に踏み込み過ぎた。相手の意向や気持ちよりもぼくの論理が先行し、余計なことを沢山言ってしまった(今も言っているけど…)。
イタリアに住み始めた頃、ぼくの人生の師匠から「暇な人に相談するとろくなことがない」と言われた。まさに、ぼく自身がその「暇な人」だった。
まったく人の面倒をみている立場でもなかったが、「人に寄り添った気になる」というのは、自分自身の空洞感(あるいは空腹感?)を救ってくれるに役立つ。相談した本人にとってはたまったものではない(みなさん、ごめんなさい)。
数多の経験を積んできた現在、アドバイスするにあたっての自分なりの方針がある。いつもその方針が守れているかどうかは別にして、こんなところではないか、というラインは少なくてもいくつかある。
例えば、以下のようなことだ。
「好きなことをやれと言うセリフが世には出回っているが、20代は得意なことで仕事をして、30代半ばあたりから、だんだんと好きなことと得意なことのバランスを変えていくのがいい」
「好きな人と嫌いなものを食べるか?嫌いな人と好きなものを食べるか?好きなものを嫌いな人と食べても、美味しくないし、そこからその料理が嫌いになるかもしれない。だから、好きと嫌いという基準は重んじながらも、好きと嫌いの境界線はたいしたことがない、という認識は同時にしておいた方がいい」
大学生に卒業後に勤めるのが大きな組織がいいか、小さな組織がいいかと聞かれれば、どちらでもいいと答える。かつてなら産業構造の上部にある業界から下るのが転職しやすかった(重厚長大から流通へ、というような)。大きな組織の意思決定のプロセスを知っておくのがプラスだと思うなら、なおさら最初に大企業に入っておくしかなかった。
現在、その構造が流動的になっており、「大きな固い産業」が「小さな柔らかい産業」の経験を求める場面もでている。このことを考えると、組織の大小が就職の際の決定打にはならない。
30代以降の人が企業をやめての独立については、単に独立自体に意義を求めているタイプには再考を助言する。ただ、組織で働くのがどうしても生理的に合わないというなら、身体や神経を壊す前に、さっさと辞めて新たな道に進むことを勧める。
独立に幻想を抱くのはよした方がいいが、独立した場合の他人の苦労話も適当に聞いておいていい。どうせどこで何をしても、人生において苦労というありようから逃れることはできない。それに立ち向かう気力があるかどうか、というだけの話だ。気力があるかどうかとは関係なく、難儀するシーンはどうせ向こうから遠慮なくやってくる。
海外で仕事をするかどうかについて思案中の人には、海外か国内かという指標ではなく、自分がする仕事がどちらで適切か、という点で考えるように話す。ただし、海外で実際に仕事をすると、国内にいる「海外派」の経験談や考えが実はさほど傾聴に値しない、ということがよく分かる。中途半端なノイズに惑わされる率を減らしたいなら、一度は外国に住んで働くのは悪くない。
余計かもしれないが、結婚に迷う男女から意見を聞かれれば、理念が一致するとか、人生の目標が同じとか話しているうちは、結婚を勧めない。これは前述した好き嫌いの問題と同じで、時間の経過と共にころころ変わる。結婚の前提にはならない。この相手と一緒にずっといたいと動物的に思えるかどうかだけだ。相手の不在にどれだけ自分の心が乱れるか、である。
個別のトピックについてはこんな具合であるが、とても基本的なことを言うなら、以下になる。
自分が心の落ち着きを失うようなことは、やらないと決めておくことだ。生理的にどうも受け入れられない、自分の倫理的な拠り所を他人に明け渡さなくてはいけない、こうした点を譲歩しない。「自分の心に問いなさい」という表現があるが、あれである。
この自分の「心の範囲」については、常に意識的であった方が良い。その範囲に踏み込んでこない選択は、その時々で決めたらいい、としか言いようがない。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。