震災で共に傷つき共に立ち上がり ヴィッセル神戸、25年目の初戴冠

 
本拠地のノエビアスタジアム神戸で「神戸讃歌」を合唱するサポーター。スタンドとチームが一体となる瞬間だ=昨年12月21日、神戸市兵庫区(門井聡撮影)
当時神戸に所属していた宮本恒靖選手と抱き合い、勝利を喜ぶ社長時代の安達貞至さん=平成21年3月、神戸市兵庫区

 【阪神大震災25年 スポーツの力(下)】

 阪神大震災で神戸の街と共に傷つき、共にに立ち上がったチームが、四半世紀を経て初めてのタイトルを獲得した。今年元日に国立競技場で行われたサッカーの天皇杯全日本選手権で優勝したJリーグのヴィッセル神戸。震災当時、強化部門の責任者だった安達貞至(81)は「もう25年もたったのか」と感慨に浸る。

 市民の期待に

 地震が発生した平成7年1月17日、発足したばかりのチームは初練習を行う予定だった。安達は外国人選手獲得のため、ポルトガルにいた。現地時間の午前5時ごろ、同行していた通訳に起こされてテレビをつけると、神戸の街の悲惨な様子が映し出された。「チームはどうなったんだ」。予定をすべてキャンセルし、3日かけて帰国した。

 関係者に犠牲者はいなかったが、当時、神戸市中央区の人工島ポートアイランドにあった事務所にスタッフが集合できたのは1月下旬。銅市西区の練習場はがれき置き場となっていたため使えず、川崎製鉄サッカー部からチームを引き継いでいた縁で、岡山でトレーニングを始めた。

 さらに、地震で社業に大きなダメージを受けたダイエーがメインスポンサーから撤退。チームは神戸に戻ったものの、決まった練習場所もない。存続が危ぶまれる中、安達は資金集めや練習場の確保に奔走した。

 頭を下げて支援を求め、グラウンドを借りる。ときには「こんなときにサッカーなんて」とあからさまに拒絶された。選手は空いている企業のグラウンドを渡り歩き、用意できなかったときには海岸を走った。気がめいりそうになる中、支えとなったのが、英国人監督のスチュワート・バクスターのサッカーに専念する姿勢。「チームの再建は安達に任せ、われわれは技術を磨いて市民の期待に応えよう」と選手を鼓舞した。その言葉を、安達は今もはっきりと覚えている。

 感謝を忘れず

 チームは8年にジャパンフットボールリーグ(JFL)で準優勝し、9年にJリーグ参入を果たした。その後も、経営難となって16年に営業権を楽天の会長兼社長、三木谷浩史が代表を務める運営会社に譲渡するなど、紆余曲折が続いた。J2落ちも2度経験。安達が社長を務めた18年から21年も、成績は上向かなかった。それでも、サポーターは応援し続けてくれた。

 今はチームを離れ、中国のサッカーチームとの事業を手掛ける安達だが、「涙が出そうになる」というエピソードが2つある。

 ひとつは、練習場の隣に仮設住宅が立ち並んでいたころのこと。選手の蹴ったボールがよく飛び込んだ。取りにいくのは、安達らスタッフの役目。「ボールが飛んできて申し訳ありません」。謝る安達に、仮設住宅に住んでいた女性はこう答えた。「横で元気に走ってくれているから、私たちも元気をもらえるんです」。まだ「スポーツの力」という言葉は生まれていなかったが、安達はサッカーに打ち込む意義を感じた。

 もうひとつは、試合前にサポーターが「神戸讃歌」を合唱する場面。シャンソンの名曲「愛の讃歌」のメロディーに、震災から復興した神戸の街とチームの姿を投影したオリジナルの歌詞をつけたものだ。

 「俺たちのこの街に お前が生まれたあの日 どんなことがあっても 忘れはしない 共に傷つき 共に立ち上がり これからもずっと 歩んでゆこう 美しき港町 俺たちは守りたい 命ある限り 神戸を愛したい…」

 合唱は今年元日の国立競技場にも響いた。安達は言う。「ヴィッセルの生い立ちは他チームとは違う。地域やサポーターに支えられ、ここまできた。何年経過しても、感謝の気持ちを忘れずに受け継いでいってほしい」。それが、震災の街に誕生したチームの責任だと考えている。=敬称略(北川信行)

 安達貞至(あだち・さだゆき) 昭和13年4月4日生まれ、兵庫県出身。関学大からヤンマーに入社し、サッカー部でプレー。平成6年12月に退社し、ヴィッセル神戸の強化部長に就任。横浜フリューゲルスのゼネラルマネジャー(GM)を経て17年にヴィッセル神戸にGMとして復帰。社長、副会長、相談役などを歴任し、退職。

 阪神大震災はプロ野球オリックスの「がんばろうKOBE」など、被災者とスポーツ界のきずなが生まれた災害でもある。令和2年は東京五輪・パラリンピックが開かれる五輪イヤー。あらためて震災とスポーツの関わりを振り返った。