ラーメンとニッポン経済

1950-満鉄エンジニアが見た 「札幌味噌ラーメン」の夢

佐々木正孝

 全国至るところに、各地の魅力を内包したご当地ラーメンがある。博多に豚骨があれば、和歌山には醤油豚骨が、東京には醤油ラーメンが。そして、北の大地で熱々の油膜を張る濃厚ラーメンがある。そう、ご存じ札幌味噌ラーメン。その時代に出現したラーメン店を軸に日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を見ていく本連載。第2回は戦後復興期から高度経済成長へ疾駆する中、北から発信を始めた「札幌ラーメン」に焦点を当ててみよう。

■帝政ロシアの騒乱から、北都で原初ラーメン文化が開花

 その料理人は、シベリアからやってきた。札幌ラーメンの始まりは、北海道大学の正門前で写真館を営んでいた大久昌治が開店した『竹家食堂』と言われる。北大に留学していた中国人留学生でにぎわったこの食堂に雇われたのが、王文彩。シベリア出兵中に勃発した尼港事件による混乱を逃れ、ニコライエフスクから樺太経由で逃れてきた、中国酒家の料理人だ。彼の腕を買った大久は1922年(大正11年)、店名を『支那料理竹家』としてリニューアルし、王が手がけるメニュー「肉絲麺」を加えた。塩味の鶏ガラスープに細切りにした豚肉とタケノコ、ネギ、そして手延べ麺を合わせた大陸風の中華料理だったという。

 その後、大久は肉絲麺をベースに製麺機による麺、焼豚・メンマ・キクラゲというトッピング、豚骨や丸鶏、野菜からとったスープに醤油で味つけ。東京・横浜でブレイクした支那そばをいち早く技術移転して「ラーメン」というメニュー名で提供した。北大への出前などで若い世代を中心に大流行し、後発店も続々。最盛期には喫茶店のメニューに置かれるまでになったという。戦前の札幌には、既に一大ラーメンブームがあったのだ。しかし、レシピは竹家食堂流、つまり戦前の支那そばテイスト。醤油ベースで淡め、シュッとした面持ち。現在の札幌ラーメンの濃い風貌とは似ても似つかない。

 --札幌で暖簾をくぐり、味噌ラーメンを頼もう。丼からはまったく湯気が立たないが、それは表面をラードがビッチリと覆っているから。箸を入れると、もうもうとした熱気が立ち昇る。箸で分け入ると、そこには濃度高めのスープ。口に運べば、味噌がどっしり。野菜のダシ感やニンニクエキスも下支えする濃厚な味わいに、思わず口角が上がる。モッチリ太めのちぢれ麺は加水率高めでじっくり熟成され、モヤシや玉ねぎなどの野菜に負けないストロングな食感。黄色いルックスで、茶濁スープの中にも沈み込まず、存在感を発揮する--このようにワイルドな姿こそ、札幌“味噌”ラーメンのデファクトスタンダードである。

 味噌をフォーマットとする札幌ラーメンの仕様はいかにして開発されたのか。そして、ご当地ラーメンの嚆矢として、いかにして全国に波及していったのか。そのヒストリーを振り返ると、あるキーパーソンの姿が浮かび上がった。彼こそは南満州鉄道(満鉄)で当時最先端の機関技術を学んだエンジニアだ。

■1950年 さっぽろ雪まつりと同年に開店した『味の三平』

 時は戦後直後。札幌は南7条、すすきのの路上。本連載第1回で「ヤミ市発のラーメン」が戦後ラーメンのロケットスタートとなったことに触れたが、札幌の戦後ラーメンも小さな屋台から始まる。1946年、松田勘七が『龍鳳』を開業。大宮守人は松田勘七を師匠として屋台を引き、1950年に店舗『味の三平』を構えた。

 朝鮮戦争が勃発し、日本経済は特需の後押しがあって、雪崩式に高度経済成長期へと突入。幕末の開港から栄えていた函館、戦前の北海道経済の中心だった小樽を抜き去り、戦後の札幌は北海道行政のセンタースポットとして、そして経済・商業の中心都市としてプレゼンスを増しつつあった。国民の所得水準が著しく向上していく中、札幌は観光を起点とするテイクオフを図っていく。

 1950年、第1回「さっぽろ雪まつり」開催。今や冬の風物詩、北海道観光最大の行事として君臨するビッグイベントが産声をあげた、まさにその年にオープンしたのが『味の三平』だ。翌51年には日本航空が国内線の運航をスタート。東京を発った「もく星号」が千歳空港に姿を見せる。道内でも札幌-千歳間の弾丸道路が開通。内地からの観光客を札幌へ呼び込むインフラは着実に整備が進んだ。

 札幌ラーメン史を紐解くと、札幌はこの時期に「ラーメンの町」として認知され、現代に続くご当地ラーメン文化が開花した……と解説される。そこに介在したキーパーソンが花森安治。『暮しの手帖』創始者として知られる彼こそ、札幌ラーメンをメジャーに押し上げた目利きとして語られることが多い。

 花森は東京帝国大学時代の友人、扇谷正造が編集長を務めていた『週刊朝日』の連載で札幌を取材。そのルポルタージュが評判となり、「全国の食文化に精通する花森が札幌名物=ラーメンとお墨付きを与えた」と、喧伝されたのだ。

 しかし、当該記事「日本拝見その12 札幌--ラーメンの町」(『週刊朝日』1954年1月17日号)を読むと、印象はガラリと変わる。花森の札幌ラーメン評は、意外にも辛辣だ。ラーメンの味わいには言及せず、「いきおい、名物はラーメンということになってしまう。うまいから、というのではない。やたらに数が多いのである」とバッサリ。

「日本の生そばの、あの伝統風味は、もちろんあろう筈はないが、さりとて、マカロニ、スパゲッティのような、本物のハイカラさからもほど遠い。なにか安手の異国ふうにみえて、実は日本製そのもの」「札幌の物価にしては安上がりだということがあるかもしれない。寒い土地だから脂肪分をとりたいという気も働いているのだろう」

 後年になって「いまからおもうと、『札幌に名物はない』と書けば、すんだことである。その二十年のあいだに、いつとはなく、ラーメンは札幌が本場みたいなことになってしまった。めんくらったのは、当のラーメンと、このぼくだろう」(『暮しの手帖』第2世紀18号)と書いたほどだ。

 しかし、ルポルタージュを発表した翌年、1955年には編集長を務める『暮しの手帖』32号で「札幌のラーメン」を取り上げた。「おぼつかない素人の包丁の筈でありながら、しかも、たべて、これくらいうまいラーメンは、よそにはない。ふしぎである……いちど作ってごらんなさい」と、料理として丁寧に評価し、レシピを詳細に紹介している。花森のモチベーションがここまで高まったのはなぜか? それは花森が大宮守人と知遇を得たからだ。当該誌面に記されたクレジットには「南七西四・三平 大宮守人」とある。

■満鉄出身のエンジニアが腕を振るう厨房

 大宮守人--1919年、旭川生まれ。旧制旭川中学を出て満州に渡り、南満洲工業専門学校の機関科で蒸気機関車のメカニズムを学ぶ。その後南満州鉄道(満鉄)に入社し、機関士として活躍。終戦後に日本に引き上げ、札幌で屋台を引き始めたというキャリアの持ち主だ。屋台からスタートした苦労人だが、バックグラウンドは燃料機関のメカニズムにある。草柳大蔵が取材した「札幌ラーメンの体質」(週刊サンケイ 1965年4月5日号)によると、厨房でも機関士ならではのアプローチが発揮されていることがわかる。

「湿度の低いところでは脂肪が思いきって使える」

「脂肪を着火温度に近いところで分解するのがコツ。セ氏87~92度と考えていただきたい」

「鍋に野菜を入れて炒めるときのガスの流量は1800ml(/秒)、流圧は0.5kl(/平方インチ)。これにより150度~200度の温度が保てる。分解した脂肪がパッと野菜に飛びつく」

「モヤシの大部分を占める含木炭素は強い熱にあうと瞬間的に分解して外に出る。脂もガーリックも、だから、食べる人には感じられない」

 ラードなど油分を増やして食べ手の充足感を上げる一方、大量の野菜に油を吸収させて舌触りにはクドさを出さないように工夫。1960年代から店内の空調を徹底管理し、熱気がこもらない低湿度空間でラーメンを提供していた。

 そこにあるのは、勘と度胸と経験に基づいた料理人の属人技ではなく、データを処理し、再現性を高めるロジカルな技法だ。そもそも、大宮が籍を置いた満鉄といえば、1930年代に最高時速130km(現在のつくばエクスプレスの最高速度と同等)を実現した超特急「あじあ」を擁した先端企業である。大宮がそこで培ったロジックとデータサイエンスこそ、解像度の低い札幌ラーメンに冷ややかな視線をおくっていた花森を刮目せしめたに違いない。

 盛田昭夫、井深大は旧日本軍の技術人材を集めた「科学技術研究会」で出会い、戦後にソニーを創業した。糸川英夫は中島飛行機で陸軍の九七式戦闘機、隼などの設計に携わり、戦後はロケット開発を牽引。三木忠直は海軍の戦闘機を設計し、戦後は初代新幹線「0系」のフォルムを創り上げた。旧軍の技術者たちは平和な時代を迎えて技能を存分に発揮し、高度経済成長期の日本のものづくりを支えていく。大宮は満鉄エンジニアの腕をキッチンに生かし、さらに花森安治というスポークスマンを得て札幌ラーメンを世に出したのである。そして、彼による最大のイノベーションこそ「味噌ラーメンの開発」だ。

 『味の三平』二代目店主によると、「お客さんから『豚汁にラーメンを入れて欲しい』と言われて考えついたという俗説がありますが、あれはまったくの都市伝説」だそうだが、味噌味のスープに中華麺を合わせるというマッチングの妙だけではない。

 当時、ラーメンいえばストレート麺が常識だったが、大宮は製麺所とタッグを組んで縮れ麺を導入。濃厚なスープをよく持ち上げ、口中でぷるんとした食感を楽しませてくれる麺を札幌ラーメンの重要パーツにした。クチナシ液によって中華麺を黄色に着色して食べるものの食欲をそそったのも、具材に緑豆モヤシ、ニンニクを起用したのも大宮が最初だ。ジャストアイデアの枠を固め、ディテールを丁寧に整えてプロダクトに結実させる。これもまたエンジニア流のアプローチと言えるだろう。

 大宮のビジネスパートナーだった西山製麺が編纂した「札幌ラーメン年表」によると、大宮が世界初の味噌ラーメン「味噌味めん」をメニューに載せたのは1954年のこと。以後、60年代には味噌ラーメンが札幌の他店にも広がり、旅行者の評判になっていった、とある。昭和20年代にすすきのに登場した「ラーメン横丁」も、今でいう集合施設としてプロモーションされて観光客に浸透。花森が皮肉交じりに言った「サッポロ--まさしくラーメンの町」というフレーズは、実を伴って定着していく。

 1956年度(昭和31年度)の経済白書は「もはや戦後ではない」と高らかに宣言し、復興期から大量生産・大量消費社会への移行を示唆。翌57年には「観光事業振興5ヶ年計画」が策定され、戦後の産業政策に観光育成が本格的に組み込まれていく。札幌は「さっぽろ雪まつり」、そして「札幌味噌ラーメン」を代名詞に発展していくのだ。

 その後、昭和40年代には百貨店の催事を契機に東京など都市圏でも味噌ラーメンがメジャーになり、1967年には味噌ラーメンを主軸にしたチェーン『どさん子』が1号店を両国に出店。以後、4年で300店舗超という猛拡大で列島を席巻する。翌68年にはサンヨー食品が「サッポロ一番みそラーメン」を発売。現在まで続くロングセラーに。チェーン店とインスタントラーメンという現代的な組み合わせを得て、札幌味噌ラーメンはラーメンの主要カテゴリーとなった。無論、ブレイクは国内にとどまらない。西山製麺はドイツ、アメリカ、シンガポールに拠点を構えてサッポロスタイルの麺を世界へ届けているし、海外に出店するチェーン、個人店も着実に増えている。

 ファウンダーが戦時中に培った技術を基盤に、イノベーションとブランディングによって世界へ雄飛した。そんな札幌ラーメンの歩みは、ものづくりジャパンを牽引した企業群の眩しさに似る。復興から高度経済成長期まで、日本のサンダーロードを支えたのは、技量とアイデアで爆進した無数の背中たちに他ならない。

 底冷えの札幌。雪をまとう北大ポプラ並木、冷気の中にたたずむラーメン店。味噌の香りと湯気の彼方に、戦後日本のバイタリティを感じたい。

佐々木正孝(ささき・まさたか) ラーメンエディター、有限会社キッズファクトリー代表
ラーメン、フードに関わる幅広いコンテンツを制作。『石神秀幸ラーメンSELECTION』(双葉社)、『業界最高権威 TRY認定 ラーメン大賞』(講談社)、『ラーメン最強うんちく 石神秀幸』(晋遊舎)など多くのラーメン本を編集。執筆では『中華そばNEO:進化する醤油ラーメンの表現と技術』(柴田書店)等に参画。

【ラーメンとニッポン経済】ラーメンエディターの佐々木正孝氏が、いまや国民食ともいえる「ラーメン」を通して、戦後日本経済の歩みを振り返ります。更新は原則、隔週金曜日です。アーカイブはこちら