世界初の高速鉄道誕生の影に、航空機の製造技術を取り入れた小田急電鉄の特急「ロマンスカー」の存在が大きく影響していたことは、あまり知られていないかもしれない。東海道新幹線が開業する7年前、初代ロマンスカーが国際標準より狭い線路幅の狭軌鉄道で世界最速の時速145キロを樹立。その高速試験データが新幹線開発にも役立てられたのだ。「高速鉄道のパイオニア」とも称され、新幹線誕生の立役者となった初代ロマンスカーはこれまで非公開だったが、4月に開館する小田急の博物館「ロマンスカーミュージアム」の目玉展示として公開されることになった。一方、ロマンスカーの車内販売が12日で終了。約70年間続いた「走る喫茶室」の歴史に終止符が打たれた。ロマンスカーの歴史をかんたんに振り返ってみたい。
ロマンスカーは「新幹線のルーツ」
思いを寄せ合う2人がロマンスを語りながら温泉地の箱根を目指す。どこか甘美な響きのある「ロマンスカー」という愛称。進行方向に向かって並ぶ2人掛けの座席を「ロマンスシート」と呼び、これがロマンスカーの由来になったとされる。
ロマンスカー(ローマンスカー)は戦前、関西の京阪電気鉄道や南海鉄道でも走っていた。関東では戦後、東武鉄道に「デラックスロマンスカー」(1720系)と呼ばれた特急車両があった。だが、今やロマンスカーは小田急の“専売特許”に。自然災害に伴う運行情報を伝えるニュースでも、「特急ロマンスカー運休」と報じられるほど、小田急の代名詞として人口に膾炙(かいしゃ)している。
その歴代の小田急ロマンスカーが一堂に会する博物館が「ロマンスカーミュージアム」だ。小田急小田原線海老名駅(神奈川県海老名市)の隣接地に4月19日に開業する。
「ロマンスカーを中心とした退役車両の展示を通じ、小田急の歴史を後世に伝えていくことで、小田急に愛着を持っていただくきっかけとなればと考えています」
小田急の担当者はミュージアム開館の意義をこう強調した。ロマンスカーの嚆矢(こうし)が1957年に登場した初代3000形。スーパーエクスプレスの頭文字から「SE」や「SE車」と呼ばれる。
温泉地に向かう私鉄の特急車両でありながら、当時の科学技術の粋が集められ、鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所=JR総研)と共同開発されたのだ。それがいかに異例で、エポックメイキングなことであったか。当時と今では時代背景も異なり“凄さ”を理解するのは難しいが、あえて現在に置き換えて考えれば、リニア中央新幹線開業前に、私鉄の観光特急に超電導リニア技術の導入を試みるようなものか。それほど前代未聞の出来事だった、と言ってもあながち大げさではないかもしれない。
そして、このあまりに画期的なSE車の誕生は、1964年10月に開業する東海道新幹線開発に大きな影響を与える。「高速鉄道のパイオニア」「新幹線のルーツ」と称されるゆえんだ。
「タタン、タタン」独特のジョイント音
電車の車輪がレールのつなぎ目(ジョイント)を通過する音といえば、「ガタンゴトン、ガタンゴトン」である。ところが、ロマンスカーの奏でる音は違った。オノマトペ表現は難しいが、少なくとも「ガタンゴトン」ではない。文字に書き起こせば、「タタン、タタン、タタン、タタン」といった感じだ。何とも軽快で小気味よく、等間隔の律動を響かせるのだ。
レールのつなぎ目から聞こえるこのリズムの違いは、ロマンスカーの特殊な台車構造に起因する。通常は1両につき2つの台車が設置されているのだが、歴代ロマンスカーは、車両と車両をつなぐ連結部分に台車を配置。これを「連接台車」と呼び、等間隔で台車が配置されているので、通常の車両とジョイント音も異なるというわけだ。
SE車はこの連接構造を小田急で初めて採用。後継車両にも引き継がれていくロマンスカーの伝統になった。連接構造のメリットはカーブ区間に対応できること。直線区間が少ない私鉄の小田急線内でスピードアップを図る狙いがあったとみられる。
飛行機のような流麗な流線形を描く斬新なデザイン。初代ロマンスカーのコンセプトは軽量、低重心だった。鉄道技術研究所には、戦時中に航空機の開発を手掛けた技術者も少なくなく、SE車の設計にあたっては空気抵抗や走行安定性などが考慮された。
SE車の登場は1957年。先の大戦が終戦を迎え、12年後のことである。そんな時代に鮮烈なデビューを果たし、小田急線内で試験走行を重ねると、国鉄(現JR)の東海道本線で高速試験に臨む。
これも前例のないことだった。当時のことである。もしかしたら、私鉄のごとき車両が天下の国鉄の営業路線で試験するなどまかりならん、という空気さえ漂っていたかもしれない。この高速試験の実施に対して、国鉄内でも抵抗があったとされる。
だが、日本の鉄道史上初となると私鉄車両による国鉄線での高速試験は行われ、同年9月、SE車は時速145キロという狭軌鉄道での世界最高速度記録を樹立する。
日本の在来線の多くが、海外の鉄道で採用されている軌間1435ミリの「標準軌」より狭い線路幅1067ミリだ。走行安定性や輸送量において狭軌はハンディを抱えるが、その中で初代ロマンスカーSE車は快挙を成し遂げた。
この試験成果は「こだま形」と呼ばれた国鉄20系(のちの151系)特急車両の開発を経て、標準軌で建設された新幹線の車両開発にも役立てられていく。
1960年代、モータリゼーションの発展によって国内外では「鉄道斜陽論」が唱えられていた。今の言葉で言えば、「鉄道はオワコン」という雰囲気を断ち切り、高速鉄道という新たな時代の幕開けを告げたのが、東海道新幹線の誕生であった。安全で大量輸送が可能な世界初の高速鉄道「Shinkansen」は、海外の鉄道関係者をも奮い立たせたといわれる。フランスのTGVやドイツのICEなど欧州をはじめ世界各地で高速鉄道の建設が進んだことが、何よりの証左だろう。
高速鉄道の黎明期に、礎の一つを築いた初代ロマンスカー。鉄道ファンらで構成する「鉄道友の会」が優秀な車両を表彰する「ブルーリボン賞」もSE車をきっかけに創設された。もちろん、第1回ブルーリボン賞を受賞したのはSE車だ。爾来(じらい)、歴代ロマンスカーは30000形(EXE、EXEα)を除くすべての形式が受賞の栄に浴している。
「運転士気分」味わえる前面展望席
ロマンスカーの由来がロマンスシートだったとしても、ロマンスカーと聞いて多くの人が思い浮かべるのは展望席。これも1963年にデビューしたSE車の後継、3100形(NSE)から続くロマンスカーの伝統だ。今も昔も「運転士気分」を味わえる前面展望席は子供たちのあこがれの的である。
ロマンスカーミュージアムの1階には、小田急で初めて展望席を設置したNSEのほか、リクライニングシートを採用した7000形(LSE)、高床式のハイデッカー構造となった10000形(HiSE)も展示される。展望席のデザインが時代とともにどう変化しているか眺めるのも面白そうだ。
一方、歴代ロマンスカーには、展望席が付いていない形式も存在する。例えば、今も現役で活躍する30000形(EXE、EXEα)。唯一ブルーリボン賞を受賞しなかったロマンスカーと聞けば残念な印象を持つ人もいるかもしれないが、そんなことはない。座席と座席の間隔のシートピッチも拡大され、何より座り心地も良い。
6両編成と4両編成で分割・併合できる10両編成になったのもEXEの特徴だ。途中の相模大野(相模原市)で、6両編成が箱根湯本方面へ、4両編成が片瀬江ノ島方面へと分かれて運用することもできる。この発想はその後、60000形(MSE)にも受け継がれている。
NSEやLSEはEXEより1両多い11両編成だが、連接構造の車両は1両当たりの長さが通常の車両(1両約20メートル)よりも短く、NSEやLSEの編成長は通常の車両で換算すると7両分に相当する。これがEXEでは10両となったのだから、単純計算で約3両分も定員が増えたことになる。
都心への通勤や買い物などで普段からロマンスカーを利用する沿線住民にとってはありがたい存在で、定員が増えたおかげで、ロマンスカーで座って帰りたいのに、「満席で乗れない」ということも減った。EXEは現在、EXEαへのリニューアルが進められており、快適性がより向上している。
JR東海の御殿場線へ相互直通する特急車両として1991年に登場した20000形(RSE)も展望席は設置されていないが、2階建てのダブルデッカー車両を連結していたのが特徴だ。特別席「スーパーシート」(グリーン車に相当)やセミコンパートメントも備え、当時は西伊豆の玄関口である沼津(静岡県)まで乗り入れていた。このRSEもロマンスカーミュージアムに展示される。
ちなみに、前述のMSEも展望席はない。EXEと同様、分割・併合が可能な10両編成で「フェルメールブルー」と呼ばれるメタリック調の独特な青色の塗装が施されている。MSEはマルチ・スーパー・エクスプレスの略。地下鉄線内やJR御殿場線に乗り入れることができる。
東京メトロ千代田線の大手町駅や霞ケ関駅で現れると、つい目を奪われる。フェルメールブルーの車体は都心の地下空間でそれだけ異彩を放っている。この車両、一時期は臨時特急「ベイリゾート」として東京メトロ有楽町線の新木場まで乗り入れたことも。千代田線から有楽町線へは、普段は営業列車が通らない連絡線を経由するとあって注目された。現在は、小田急線の新松田駅付近からJR御殿場線の松田駅付近を結ぶ連絡線を通過する特急「ふじさん」でも使われ、まさに“マルチ”に活躍している。
このように、ロマンスカーは時代の変遷とともに独自の進化を遂げ、さまざまなバリエーションが展開されている。
伝統のバーミリオンオレンジ
変わらない伝統もある。小田急のフラッグシップとして2005年に登場した50000形(VSE)では連接構造と展望席が復活。2018年にデビューした最新型の70000形(GSE)では、連接構造こそ採用されなかったものの展望席の伝統は維持された。大型の1枚ガラスを使用した前面窓からはダイナミックな眺望を楽しめる。
MSEは青、VSEは白を基調とした塗装だが、いずれも「バーミリオンオレンジ」と呼ばれる色の帯をまとっている。外観の印象は変わっても、ロマンスカーのイメージカラーは不変だ。
ロマンスカーといえば、「ミュージックホーン」と呼ばれる補助警笛も伝統の一つだろう。「小田急、小田急、ピポピポー 特急着いた、箱根に着いた…」という歌詞を思い出した人もいるかもしれない。三木鶏郎作詞・作曲のこの歌は、その名も「小田急ピポーの電車」。テレビCM向けの楽曲では、ミュージックホーンの音を「ピポピポー」と表現していた。
このミュージックホーン、今でもロマンスカーが駅を発車する際などに耳にすることができる。車両形式によって音色は異なるものの、独特のメロディーは変わっていない。
「走る喫茶室」の歴史に終止符
ロマンスカーミュージアムには「ROMANCECAR MUSEUM CLUBHOUSE」というカフェも併設される。
カフェと言えば、ロマンスカーの「走る喫茶室」。SE車には喫茶カウンターも備えられ、「スチュワーデス」と呼ばれたアテンダントが各座席まで飲料を運ぶシートサービスを行っていた。その歴史は1949年、特急用車両1910形の導入時に「走る喫茶室」として飲料などの注文を取ったことに始まる。その後、ワゴンを使った車内販売へと変わり、ロマンスカー利用者に親しまれたが、ダイヤ改正前日の今月12日で終了。実はコロナ禍の緊急事態宣言発令で1月以降、車内販売は中止していたため、再開されることなく、ひっそりと約70年の歴史に幕が下ろされた。
「長い間、ロマンスカーの顔としてあり続けることができたのは、みなさまのおかげでございます」
車内販売終了を記念して製作されたポストカードには、こう書かれていた。
ロマンスカーに乗ってミュージアムへ
ロマンスカーミュージアムには1927年の小田急(当時は小田原急行鉄道)開業時に活躍した通勤型のモハ1形も展示されるほか、ミュージアム2階には沿線風景を再現した「ジオラマパーク」や子供たちが楽しめる「キッズロマンスカーパーク」も設けられる。コンセプトは“子ども”も“大人”も楽しめる鉄道ミュージアムだ。
入場料は中学生以上の大人900円、子供(小学生)は400円、3歳以上の幼児は100円。感染拡大防止の観点から当面の間、入館は予約制となる。予約に関する情報は今月26日に告知されるという。
小田急はロマンスカーミュージアムについて「新しく誕生する街のシンボルとして、さらなる街の賑わい創出に貢献したい」と意気込む。
展示の目玉となる初代ロマンスカーのSE車は、長らく海老名検車区構内に保存されてきた。「ファミリー鉄道展」などのイベント時を除き原則非公開だったが、ロマンスカーミュージアムの開館によって再び日の目を見ることになる。
登場時のデザインは現代からも見ても斬新で、なるほど新幹線のルーツというのも頷ける。SE車は途中、前面のデザインや塗装が一部変更され、編成も短くなった(SSEともいわれる)。その“晩年”の姿も凛々(りり)しく、趣きがある。こうしたデザインの変化、展望席や連接台車の有無もまた、ロマンスカーの歴史だ。
ロマンスカーミュージアムの最寄り駅となる海老名には、一部の特急ロマンスカーが停車。バラエティに富む現役のロマンスカーに乗って、名車ぞろいの退役ロマンスカーに会いに行くというのも面白そうだ。