日本人の倫理観は元来高くない
ここ数年、不倫に対する風当たりは非常に強いです。まあ倫理に背いているから不倫というのだし、だとしたら世間の風当たりが強いのは当たり前と言えば当たり前ですが。とはいえ、最近の有名人に対する不倫バッシングは凄まじいものがあります。親の仇くらいの勢いで激しく責め立てるその風景は、正直ちょっと引きます。弁護士がこんなこと言っていいのか分かりませんが。
そもそも昔の日本人は、不倫に寛容だったなんていう説もあります。江戸時代の性はもっと開放的だったなんて。誰もその時代を生きていないのに…。それでもその説には何となく説得力を感じます。というのも、日本人は元来、倫理観がそれほど高くなかったのではないかって、私はそう思っているんです。
これは日本人と宗教との関わりから考察するものです。多くの日本人はキリスト教を始めとする一神教とは距離を取っています。神と契約を結ぶ一神教では、厳しい掟の下、倫理が作られていきます。しかし日本人の宗教観はそうではありません。日本人は万物が神であって、そこに神との契約はないのです。宗教に基づく倫理が希薄。だから日本人は倫理というものがあまり育まれていないように思うのです。
日本人の行動規範は、どちらかと言えば「他人の目」。だから「バレなきゃいい」という意識を生みやすい。これは倫理観の希薄な日本人の悪い面だと思うのですが、倫理観が薄いが故に他者に寛容であるといった長所もあったと考えます。「和を以て貴し」という考えは、互譲の美徳です。互いに譲り合うという精神は、裏を返せば妥協の精神であって、一本貫かれた芯というものは感じられません。
これもまた、日本人の倫理観の希薄さと無関係ではないのではないでしょうか。
小泉今日子さんの“交際”公表
現代の日本人の多くが、不倫に対して奇妙な誤解をしているように思います。いや、もしかしたら誤解しているわけではなく、単に法的な意味での「不貞」と不倫とを区別しているのかもしれません。
いずれにしても、私は、女優の小泉今日子さんと俳優の豊原功補さんとの交際について、不倫としてバッシングを受けたことについて、大いに違和感を覚えたのです。
2018年2月、小泉さんは豊原さんとの交際を堂々と公表しました。この時、豊原さんには戸籍上の奥さんがいました。そのことで、多くの人が不倫だとバッシングをしたのです。事実関係は不明なところが多いです。すでに夫婦関係が破綻したところで小泉さんと交際したのか、あるいは小泉さんとの交際が夫婦関係の破綻の原因だったのか。しかし世間はそうした峻別なく、戸籍上の妻がいるにもかかわらず小泉今日子さんと交際した豊原さんをバッシングし、小泉さんもまたバッシングの対象となりました。
不倫。法律上の用語では「不貞」と言いますが、この不貞行為は、民法709条の「不法行為」に該当し、違法であり損害賠償の対象となります。ただ、ここで注意を払う必要があります。不貞という違法行為の保護対象は、「円満な夫婦関係」だということです。つまり、すでに夫婦関係が破綻している場合、どちらかが他の異性と恋愛関係になろうとも、それは「不貞」とはならないのです。
なので、先ほどの小泉さんと豊原さんの一件で言えば、大騒ぎする前に冷静に、「豊原さんと奥さんの夫婦関係が破綻していたか否か」が検討されなければなりません。それこそが最大かつ唯一のポイントなのです。なのに世間はそうした点など意に介さず、「豊原さんに戸籍上の妻がいる」というただその一点でもって、一斉に非難を始めました。
戸籍上の妻がいるから「けしからん」のか
私はこのバッシング現象に興味を持ちました。このバッシングは果たして日本人の倫理観の高さの現れなのでしょうか。私は違うと思います。
結婚することを、日本では「籍を入れる」とか「入籍する」とか言ったりします。外国、特にキリスト教圏の人たちにとって、結婚=神様に夫婦の契りを誓うことです。なので、結婚式こそが結婚の本質です。
しかし日本ではそうではありません。籍を入れることこそが結婚の本質であって、結婚式はあくまでセレモニーなのです。日本人にとって、戸籍はとても重要なもので、だからこそ、「籍が汚れる」といった表現もあります。籍が汚れる=他人の目とも言えるかもしれません。
先ほどの小泉さんと豊原さんの交際に対するバッシング。もし、このバッシングが、「円満な夫婦関係を壊した」ということに対するバッシングであれば、それはきっと倫理的な観点からのものでしょう。法もまた、そうしたキリスト教的倫理観に基づいて運用されているのだと思います。
しかし、そうではなく、「戸籍上の妻がいるのにけしからん」ということであれば、それはキリスト教的倫理観からくる非難ではなく、戸籍という制度そのものへの信頼を前提として、かかる制度を蔑ろにするのはけしからんというバッシングと理解すべきではないでしょうか。
こうして考えると、日本人の行動規範は、お上が作ったルールや制度に対する信頼がまず前提にあって、そのルールや制度を誰もが守っていくよう互いが互いに監視をし合う、その緊張感の下で育まれていると言えるのではないでしょうか。
相互監視社会が招く民主主義の危機
今の日本社会のSNSによるバッシングは倫理観に基づいているように見えて、その実、何らの倫理観もないといった感じがします。実際、バッシングの仕方は常軌を逸していたりもして、そのバッシング自体が反倫理的だったりしても、まったく反省する素振りも見せなかったりします。
お上が作ったルールや制度への信頼を前提として社会全体で監視を続けるというのが本質であれば、それはきっと民主主義の危機と言えるかもしれません。
われわれは、ルールや制度を守る必要はありますが、時に変える必要もあるからです。現在の日本人のSNS監視社会は、ルールや制度を変える活力を奪う可能性があります。それはもしかすると、時代の変化に取り残される結果を招くことになるかもしれません。
いや、もうすでにそうなっているのかも。ふと思い立ったことをつらつら書いてみました。ちょっと考えてみてください。
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