コロナで世の中があまりに逼塞している。特に、経済は大不振で、目を覆わんばかりである。「ああ、織田信長のような改革者がいたらなあ!」と思う方がいるかもしれない。ところで、その信長であるが、今やその政策をめぐって大きく評価が変化した。今回は、その辺りを確認しておこう。
数ある信長の政策で特筆すべきは、商人を活用した都市や商業政策になろう。信長は伊勢湾に面する津島(愛知県津島市)、熱田(名古屋市熱田区)を支配下に収め、海上交通を掌握した。
津島・熱田が面する伊勢湾には木曽川が流れ込み、伊勢・志摩や知多半島との交通が至便だった。また、信長は熱田を拠点とする加藤氏を御用商人として召し抱え、種々の特権(徳政免除など)を与え、経済の発展を促進したのだ。
信長は堺(大阪府堺市)の直轄領化も図り、今井宗久を御用商人として起用。堺は明(中国)などとの交易を行っており、鉄砲などの武器の調達も可能だった。さらに信長は堺に税を賦課し、徴税する役割を宗久に任せた。また、但馬山名氏を屈服させて生野銀山(兵庫県朝来市)を接収すると、信長はその管理を宗久に行わせている。
つまり、信長は主要な経済都市や鉱山を掌握し、その管理を御用商人に任せることで、効率よく支配を行ったのである。そして、信長は国内の経済を活性化するため、種々の流通・経済政策に着手した。
永禄11年(1568)、信長は分国内の関所を撤廃し、自由な行き来を認めた。これにより関銭(関所の通行料)の負担などが免除され、人々の通行だけでなく物資の運搬も自由になった。商人らにとって通行料免除は大きなメリットなので、流通を促す重要な政策だったと評価されている。同時に、信長は分国内の道路の整備も命じており、関所撤廃と合わせて通交の利便性をもたらしたのだ。
もっとも注目すべきは、楽市楽座令であろう。楽座は特定の市場に限り、座(商工業者などの同業組合)の特権を認めず、自由に商売することを保証した政策だ。それは広く市場を開放し、商業の振興を促進する性格のもので、必ずしも座を廃止したものではない。
楽市は町や市場の振興策であり、そのメリットは信長が支配する分国中を自由に行き来できること、借銭・借米の返済義務がないこと、地子(地代)や諸役の免除などである。同時に、狼藉・口論を禁止するなども取り決めている。こうして信長は市場への居住者を増やし、活性化を促そうとしたとしたのだ。
このようなインフラ整備と規制撤廃は、流通経済を大いに促進させた。なお、これに類した政策は、すでに六角氏、今川氏、北条氏が実施しており、信長のオリジナルな政策ではないと指摘されている。つまり、信長が考えだした政策ではなく、すでに行われていた政策を徹底したということになろう。信長のオリジナルではないという点は重要だ。
信長は、那古野(名古屋市中村区)、清須(愛知県清須市)、小牧山(愛知県小牧市)、岐阜(岐阜市)、安土(滋賀県近江八幡市)と居城を変えた。最初に本拠とした那古野城は、現在の名古屋城の二の丸付近に所在した。周囲には多くの寺社があり、武家屋敷、市場、町屋もあった。しかも主要な交通路に面しており、宿泊できる集落もあった。
天文23年(1554)、信長は尾張守護所であった清須城を奪うと、那古野城から清須城に拠点を移し、約9年間にわたり居城とした。平城である清須城は、尾張の主要都市と陸路で結ばれ、五条川の河川交通が至便であったといわれている。
永禄6年(1563)、信長は小牧山城に移った。小牧山城はこれまでの城とは異なり、交通という面で利便性がなかった。しかし、信長は小牧山城に惣構や武家屋敷なども整備したので、本格的な城郭だったと指摘されている。これまで小牧山城は、美濃攻略前の一時的な拠点であったといわれていたが、それは見直さなければならない。
永禄10年(1567)、美濃斎藤氏の攻略を果たした信長は稲葉山城に入城し、岐阜城と改称。本城とは別に、山麓に千畳敷という居館を構えた。岐阜城下には約1万の人々が住み、商業都市が広がっていたという。城郭や城下町は、斎藤氏の時代のものがそのまま継承された。
天正4年(1576)、信長が移った安土城は、近世の先駆けとなる城郭だったと指摘されている。信長の城郭・城下町政策総決算だ。安土城下では既存の集落などを再編して、新しい城下町が作られた。楽市楽座の政策の効果もあり、人口は約6千に膨らんだ。また、正親町天皇の行幸を計画して、大手道まで作られたのである。
信長は京都を意識して何度も居城を移したが、小牧山城を除くと、交通の至便性を重視した。また、平山城を好み、すでにあった城郭や城下町をそのまま引き継いだ。その点で、安土城や城下の整備は、信長の理想形を実現しようと取り組んだと考えられる。
信長の外交政策の基本方針は、遠交近攻策であると指摘されている。この場合の外交とは、日本国内の諸大名との交渉・関係維持を意味する。外交は信長のみならず、ほかの諸大名にとっても重要な意味を持った。そして、遠交近攻策とは、文字どおり遠国と親しい関係を結び、近い国々を攻撃することだ。もともとは、中国の戦国時代に范ショ(はんしよ)の唱えた外交政策が起源である。
永禄4年(1561)以降、信長は越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄と良好な関係を結び、美濃国の侵攻を円滑に進めた。当時、上杉氏と武田氏は敵対関係にあり、川中島の戦いで、激闘を繰り広げていた。つまり、信長は敵対していた両者と親交を結ぶことで互いを牽制し、有利な立場を築いたのだ。
信長は安芸の毛利氏とも親交を結んでいたが、のちに両者の関係は破綻。その後、信長は豊後の大友氏と良好な関係を築くことにより、毛利氏を牽制した。当時、九州北部の領有権をめぐり、毛利氏と大友氏は争っていた。そのような状況を察知した信長は、大友氏と親交を結んだのだ。まさしく遠交近攻策である。
信長は、諸大名との婚姻や養子縁組を積極的に行った。妹・お市を浅井長政の妻として送り込み、また伊勢の北畠氏に信雄を、伊勢・神戸氏に信孝を養子として送り込んだのは好例だろう。このようにして同盟関係を構築し、他国侵攻の足掛かりにした。
しかし、信長の外交政策は必ずしもすべて成功したとはいえない。信長は天正元年(1573)に足利義昭を放逐したものの、直後に信長包囲網が形成され、上杉氏、毛利氏、朝倉氏などとの関係が崩壊した。また、四国政策では長宗我部氏に四国切り取りを認めながら、途中でこの方針を撤回したので、信長は苦境に立たされることになった。
当初、信長は柔軟な姿勢で外交政策を展開したが、戦争の拡大とともに強硬姿勢に転じたことにより、争乱が激化した印象は否めない。
最近の研究によって、信長の諸政策の多くは、先行する戦国大名たちの例があることが明らかにされている。信長の革新性があるとすれば、そうした諸政策の良い点を引き継ぎながら、より徹底したことだ。加えて、信長の強い個性とカリスマ性は政策の推進を大いに後押しした。しかし、一方で負の面もあるので、決して手放しで高い評価ばかりはできないだろう。
【渡邊大門の日本中世史ミステリー】は歴史学者の渡邊大門氏のコラムです。日本中世史を幅広く考察し、面白くお届けします。アーカイブはこちら