コロナで政権はてんやわんやである。コロナ対策はもとより、緊急事態宣言の発令のタイミング、オリンピック開催の可否を含めて、課題は山積みである。しかし、この難局を乗り切るのが現政権の課題なので、しっかり頑張ってほしいと思う。ところで、鎌倉時代にも大飢饉によって人身売買が横行するなど、幕府の無策が露呈したことがあった。今回は、寛喜の大飢饉および人身売買に対する、鎌倉幕府の対応を見ることにしよう。
鎌倉幕府や朝廷は、原則として人の誘拐やそれに伴う人の売買を禁止してきた。その大原則が崩れるのが、寛喜の大飢饉である。では、寛喜の大飢饉とは、どのようなものだったのだろうか。
寛喜の大飢饉とは、寛喜2年(1230)から寛喜3年(1231)にかけて発生した大飢饉で、日本史上でも稀有な大災害だった。実は、大飢饉の前年から不順な天候が続いており、その難を避けるべく改元が行われ、年号が安貞から寛喜へと変わった。ところが、年号を変えても、飢饉が止むことはなかった。
寛喜2年6月には武蔵国金子郷(埼玉県入間市)と美濃国蒔田荘(岐阜県大垣市)で、初夏にもかからず降雪があった。異常気象である。不幸なことに、この年の夏は冷夏と長雨が続き、同年7月には霜降、8月には大洪水と暴風雨に見舞われ、例年にない強い冷え込みが日本列島を襲った。これにより農作物は大きな被害を受け、収穫に悪影響をもたらしたのだ。冷害である。
天候不順による農作物の収穫量の減少のため、翌寛喜3年には極めて悲惨な状況が待ち構えていた。人々はわずかに残った備蓄穀物を早い段階で食べ尽くし、全国的に餓死者が続出したのである。激しい飢餓で人々は死に絶え、人口の3分の1が失われたといわれるほどだった。また、寛喜3年は一転して激しい猛暑に見舞われ、旱魃が農民を苦しめた。早い段階で種籾すら食してしまい、作付けが困難になるという不幸にも見舞われた。自然が相手なだけに、どうすることもできなかったのだ。
同年9月には北陸道と四国が深刻な凶作となり、京都や鎌倉といった都市部には、生活困窮者が流入した。『明月記』(藤原定家の日記)には、餓死者の死臭が漂ってきたという生々しい記述がある。都市部でさえ、飢餓に苦しんでいたのだ。餓死者が著しく増えたため、幕府は備蓄米を放出して対策を施した。さらにこの翌年、年号を寛喜から貞永に改め、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)などで国土豊年の祈トウ(きとう)を執り行ったのだ。
大飢饉によって、庶民の生活は困窮した。何よりも問題となったのが、人身売買である。これまで人身売買を禁じてきた幕府は対応を迫られ、苦境に立たされることになる。その事実を示すものが、次に掲出する法令であった。
寛喜3年に餓死者が続出したため、飢人として富家の奴婢になった者については、主人の養育した功労を認め、その奴婢になることを認める(人身売買の許可)。人身売買は、その罪が実に重いものである。しかし、飢饉の年に限っては許可する。ただし、飢饉のときの安い値段で、売主が買主から奴婢を買い戻す訴えを起こすことはいわれのないことである。両者が話し合って合意し、現在の値段で奴婢を返還することは差し支えない。
庶民も決して奴婢(奴隷)になることが本意ではなかったが、事情が事情だけに止むを得ないことだった。幕府は出挙米(すいこまい)を供出するなどの対策を行ったが、人身売買を許可せざるを得なかった。しかし、それは飢饉の年のみという時限立法の措置だった。永久的な措置でなかったことに注意すべきであろう。人身売買の罪の重さを認識していたのだ。そして、法令の後半部分では、予測されるトラブルを避けるため、その扱いを定めている。後述するとおり、この措置はのちに幕府を悩ませる。
上記の法令は、延応元年(1239)4月17日のものであるが、この段階に至っても人身売買をめぐる問題は深刻で、同年5月には人身売買を禁止した(『吾妻鏡』延応元年5月1日条)。その背景には、寛喜3年の大飢饉で人身売買を認めざるを得なくなったところ、生活困窮者が妻子や所従を売買したり、あるいは自ら富家の家に身を置く者が跡を絶たなかったという事情があった。それに伴う訴訟も増加していた。こうした問題を受けて、同年5月1日に幕府は六波羅探題に向けて指示をした。
それは、訴訟で扱う範囲だった。訴人(原告)と論人が京都の者であれは、幕府が関与しないという原則の提示で、関東御家人と京都の者との裁判の場合は、幕府が定める法によって裁きを行うというものだ。そして、最後は改めて人身売買を禁止する旨の言葉で締め括られている。同年5月6日には幕府の下文(くだしぶみ。将軍の命令)が発給され、朝廷の「綸旨(りんじ。天皇の命令)」に任せ人身売買を禁止する旨が伝えられた。つまり、朝廷としても大飢饉以来の悪習を断ち切りたいと考えていたのである。
一連の流れを考慮すると、寛喜3年の大飢饉を契機にして人身売買が常態化し、トラブルや訴訟が増加した様子がうかがえる。人身売買の緩和は、あくまで時限立法であったはずだったが、ことはうまく運ばなかったのだ。その流れは決して止むことがなく、その後も尾を引いた。
寛喜の大飢饉を発端とする一連の人身売買の扱いを見てきたが、その後、人身売買をめぐる対応はきちんとなされたのだろうか。延応2年(1240)5月12日に制定された追加法は、和泉守護所に宛てられたもので、次のような内容である。
人身売買を禁止することは、これまで朝廷、幕府の法において定められていた。しかし、寛喜の大飢饉を契機にして、生活のために人身売買が横行し、人々が憂い嘆いても何らなすところがなかった。しかし、今や状況は好転したので、人々が違法な行為(人身売買)をすることはいわれのないことである。以後は、早く人身売買を止めさせ、延応元年6月20日の朝廷の法に任せ、市庭に高札を立てて国中に触れること。もし、違反する者がいたら、居住地と名前を報告すること。
人身売買の禁止は和泉国だけではなく、諸国に同様の指示がなされたと考えられよう。人身売買は京都・鎌倉のような都市に止まらず、各地で行われていた。なお、延応元年6月20日の朝廷の法は、残念ながら確認されていない。前年の人身売買禁止の法令をもとに、いっそうの徹底を行ったのはたしかだ。
こうした人身売買禁止の動きは、地方へと波及していった。仁治3年(1242)正月15日、豊後守護の大友氏は幕府に追随する形で、人身売買の禁止を徹底した。その禁を犯す者があれば、買人、売人のいずれも罪科に処するという内容のものだ。豊後以外でも、同様の措置が取れたと考えられる。寛喜の大飢饉において、例外的に人身売買を認めるということは、何かと問題を残したのである。
対応に迫られた幕府は、寛元3年(1245)2月に至って、再度、人身売買禁止の徹底をするため追加法を発布した。その一つは、寛喜の大飢饉で養育された人々の扱いである。養育された人々とは、飢饉によって止む得ず富裕層に売られた者である。それは、次のとおり定められた。
無縁の非人については、成敗に及ぶことはない。親類などは、一期(その主人の代のみ)についてのみ奴婢として抱えることを許すが、売買してはいけないし、また子孫に相続することも禁止する。
史料中の「無縁の非人」というのは、縁のない貧しい人、生活困窮者を示している。「無縁の非人」の場合は、通常どおりの下人として、売買や子孫に相続することが許された。これは、奴婢を財産とみなしていた従来の方針を再確認したものである。しかし、それが親族などであれば、話は別である。売買や子孫への相続は許されなかった。やはり、寛喜の大飢饉が特例であったことを示している。
そして、幕府は改めて人身売買についての扱いを明示した。次に、その内容を提示しておこう。
御制(延応元年に定められた人身売買禁止)以前については、売主が買主に代価を支払うことによって、売買した者を受け戻すことができる。御制以後は、人身売買が禁止されており違法であるので、売買の代価は祇園清水寺の修理費用に宛て、売買されたものは仁治元年の法により放免する。
先述した延応元年に定められた人身売買禁止の法を境にして、人身売買の扱いを定めたものだ。法の制定以後、売買の代価が祇園清水寺の修理費用に宛てられているのが興味深い。同様の例は、建長7年(1255)8月にも確認できる。人身売買によって得られた金銭は、大仏に寄進されるというものだ。「国々より運上」と記されているので、諸国からそうした金銭が集められたのである。
寛喜の大飢饉以降、幕府は種々の対策を行ったが、それは根本的なものではなかった。結局は一時しのぎな対策にすぎず、人々は苦しみ続けた。幕府の無策を非難するのは酷かもしれないが、徹底した対策こそが政権の役割なのはたしかなことである。
【渡邊大門の日本中世史ミステリー】は歴史学者の渡邊大門氏のコラムです。日本中世史を幅広く考察し、面白くお届けします。アーカイブはこちら