その時代に出現したラーメンに焦点を当て、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を追っていく本連載。今回は1971年に誕生し、明けて1972年にブレイクした「カップヌードル」を取り上げる。稀代のイノベーター安藤百福が「発明」したチキンラーメンの勃興は連載4回で取り上げたが、即席麺中興の祖として見逃せないのがカップヌードルだ。これぞ飽和市場にブルーオーシャンを創出し、世界、そして宇宙にまで進出したキラー商品なのである。本品の開発~爆発的普及のプロセスを追いつつ、栄養からファッション、世情に至るまで、麺に託してずるずる啜り切った大衆の昭和史も活写していこう。
■即席麺戦国時代! レッドオーシャンで熱望された新商品
「お湯をかけるだけ、2分でOK!」
1958年、日本人の麺食文化をガラリと変えるインパクトでチキンラーメンが登場した。日清食品を創業した安藤百福が手がけたこの逸品は、スーパーマーケットやテレビジョンと並んで大衆に浸透。大量生産・大量広告・大量消費時代の到来を告げる申し子として大ブレイクを果たした。
しかし、日清食品が先行者利益を享受できた時間は決して長くない。翌1959年には梅新製菓(現エースコック)が「エースコックの味付ラーメン」を、泰明堂(現マルタイ)が「即席マルタイラーメン」を発売。その他、大小問わず350社以上のメーカーが参入し、即席麺市場は瞬く間にレッドオーシャンと化した。
チキンラーメン誕生から5年後の1963年のシェアを見ると、日清食品は全体の25.3%にとどまっている。1965年には「明星日本そば」「明星焼きそば」の新製品を繰り出した明星食品が、1971年には「サッポロ一番」を擁するサンヨー食品がシェアトップに君臨。乱売と過当競争のラーメン戦国時代が到来する。
60年代後半になると、日清食品は中村メイコ、明星食品は京塚昌子、エースコックは渥美清、サンヨー食品は山田太郎(新聞少年のスターとして支持された演歌歌手)をCMに抜擢するなど、主要メーカーは大プロモーションと値引き競争に狂奔した。
しかし、即席麺はあっという間に成熟商品に仲間入り。1966年には年産30億食を初めて超えたが、前年対比の伸び率は6.1%。1958年以来初めて10%成長を割り込み、1世帯あたりの即席麺購入量も前年比94.2%と、勢いには陰りが見え始めた。安藤百福がチキンラーメンを開発してから10年も経たないうち、パラダイムを変える新商品が熱望されるようになっていたのである。
■海外展開をにらみ、ファッションフードとして登場した
膠着した状況を打破すべく、安藤百福が開発したのがカップヌードルである。あらためて概要を紹介すると、発泡スチロール製の縦長カップにはアルミシールの蓋を乗せ、味つけを施した麺を収納。フリーズドライのエビ、豚肉、卵などの具材を添え、シュリンク包装でパッケージし、1食ごとにフォークを添える。備品のフォーク以外は、パッケージも含めた仕様はほぼ現在と変わらない。1971年9月の誕生時から既に完成度の高いプロダクトだったのだ。
安藤が開発を着想したのは、初の欧米視察旅行に出かけた1966年のこと。ロサンゼルスのバイヤーにチキンラーメンを試食してもらったところ、彼らは乾麺をバキリと割って紙コップに入れ、お湯を注いでからフォークで食べ始め、食後にはポイ、とゴミ箱に捨てたという。このミーティングを起点に、安藤は箸食&丼文化圏の外、フォーク&カップのカルチャーでも支持される即席麺を構想。飽和した国内市場にもくさびを打つ商品として開発をスタートさせたのだ。
世界にまだない「カップ麺」の姿を描き、ゼロから構築していく--安藤らの歩みは苦闘の連続だった。まず、麺を入れる既存の容器がない。適当な素材すら見当たらない。試行錯誤のあげく、「片手で持てるサイズで手から滑り落ちない」発泡スチロール製容器に至ったものの、国内には一体成型を請け負えるメーカーがない。日清食品はアメリカのメーカーの技術を導入して合弁会社を設立。
さらに、安藤が搭乗した機内で出たマカダミアナッツのアルミ容器からヒントを得て、アルミキャップによる完全密封の上蓋を開発する。安心・安全とスムーズな流通を担保すべく、安藤らは容器製造までカバーしてプロジェクトを進めていったのだ。
未知のカップ型容器に麺を収める方法として、容器の中央に麺を宙づりにする「中間保持構造」を発明し、実用新案を登録。生産ラインでは揚げた麺の上から容器をかぶせ、それをひっくり返すという逆転のプロセスを導入した。ネーミングでは、アメリカの広告代理店に依頼し、「ラーメン」というフレーズをあえて外して「カップヌードル」と命名。パッケージデザインは大阪万博のシンボルマークを手がけた大高猛に安藤自身がオファーした。
その結果、ラーメンの出来上がりであるシズル写真は採用せず、白と赤の明快なロゴが完成。「日の丸の白赤のバランスが日本人にとっては一番心地よい比率だ」とする大高の考えにより、色の配分は日本国旗の赤白と同じだという。かくして、半世紀近くに渡って愛され、親しまれるエバーグリーンが生まれる。
カップヌードルという画期的な製品はファストフード、ファッションフードが押し寄せる時代にもマッチしていた。カップヌードルが誕生した1971年は、マクドナルドの日本1号店が東京銀座の三越デパートにオープンした年でもある。
1969年から施行された第2次資本自由化により、飲食業の100%自由化が実現。1970年にはケンタッキーフライドチキン、ドムドムがお目見えしており、70年代にはミスタードーナツ、ダンキンドーナツ、サーティーワンアイスクリームといった強豪が見参。日本勢ではモスバーガー、ロッテリア、ファーストキッチンが産声を上げている。
こうした「立ち食い上等」ファストフードの台頭に乗って、カップヌードルは発売直後に銀座の歩行者天国で試食販売を展開。最大で1日2万食を売り上げた。発売初期のテレビCMも、サイケファッションに身を包んだ若者たちがバイクのツーリング中にフォークでカップヌードルを啜るというものだったから、その戦略は推して知るべし。次世代のカップヌードルはファッションフード、カルチャーフードの一面も持って走り始めた。広告史に刻まれた「h u n g r y?」から大坂なおみの「大坂半端ないって」に至るまで、話題を撒き続ける日清食品のCMには、いまだその熱がある。
■日本中が固唾を呑んだ「あさま山荘事件」、厳寒山中の湯気
ところが、発売直後のカップヌードルがスーパーや小売店の店頭に並ぶことはなかった。当時のインスタントラーメンは1食25円程度の安売りが基本。1食100円で値付けされたカップヌードルは卸店から目を向けられることがなかったのだ。安藤は「新しい商品は新しい販売システムで売れ。衝撃的な商品は必ず売れる。それ自身がルートを開いていくからだ」という信念の下、新たな販売ルートを開拓。日清食品の営業スタッフは遊園地や鉄道弘済会(キオスク)、官公庁、パチンコ店、旅館、警察や消防署など、通常の食品ルート外からの販売を模索した。
朝霞駐屯地では演習中にカップヌードルを食べる陸自隊員の姿が見られるようになるなど、ファッションフードの下に隠れた機能性はハードな現場で着実に支持され、ついにカップヌードル需要が爆発する瞬間が訪れる。
1972年2月。握り飯もカチカチに凍りつく、氷点下15度の軽井沢。山荘に立てこもった連合赤軍と警官隊が対峙した「あさま山荘事件」が勃発。鉄球が繰り返し打ちつけられる、衝撃の強行突入シーンはテレビで生中継され、各局を合わせた瞬間最高視聴率は89.7%を叩き出した。
手に汗握る、緊迫の野戦。そこで警視庁のキッチンカーが提供したのが、湯気立ちのぼるカップヌードルだ。香りに惹かれた長野県警やメディア陣がこぞって注文しただけではなく、機動隊員がうまそうに啜る姿を見た視聴者からも問い合わせが殺到。戦後史に刻まれた大事件を彩ったことで、「羽が生えたカップヌードル」と評されるほど馬鹿売れしていったのである。
あさま山荘事件に立った湯気から、約半世紀。日本で作られているカップ麺は39億7021万食、袋麺は約15億9870万食に及ぶ(2019年:日本即席食品工業協会)。そんな隆盛の中、カップヌードルはもちろん、チキンラーメンもロングセラー商品としていまだ健在。生産ラインは当時と変わらぬ製法で稼働し続けている。
その食文化は国内にとどまることなく、海の外へも伝播。2020年に全世界で消費された即席麺は実に1165億食。そして、2005年には日清食品のラーメン「スペース・ラム」がNASAフードラボから認可を受け、宇宙飛行士の野口聡一が国際宇宙ステーションで「とんこつ味」を食べる光景が中継された。ファッションフードとして生まれ、野戦食としてブレイクし、国民食から世界食、そして宇宙食へ--昭和の胃袋を震撼させたカップヌードルの旅は、まだ終わることがない。
【ラーメンとニッポン経済】ラーメンエディターの佐々木正孝氏が、いまや国民食ともいえる「ラーメン」を通して、戦後日本経済の歩みを振り返ります。更新は原則、隔週金曜日です。アーカイブはこちら