ラーメンとニッポン経済

1987-「環七ラーメン戦争」 九州ド豚骨、濃度とスメルで東都に進出!

佐々木正孝

 その時代に出現したラーメンに焦点を当て、日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を追っていく本連載。前回は1987年にフォーカスし、ディスカバー・ジャパンの波に乗って勃興した喜多方ラーメンを取り上げた。

 そして、この年は博多ラーメン『なんでんかんでん』が東京の環七通りでオープンした年でもある。この環七こそ、90年代~ゼロ年代に雑誌や情報バラエティのヘッドラインを彩った「環七ラーメン戦争」の戦場だ。硝煙の匂いならぬ、豚骨の香りがストリートに漂った「戦争」の最前線に迫る。

■これが本場の博多豚骨だ。『なんでんかんでん』起死回生の創業

 豚骨ラーメン--その名の通り、豚骨を白濁するまで炊き上げ、コッテリした味わいと粘度でクセになるラーメン。もともとは九州をルーツとするご当地ラーメンだが、関東で知られるようになったのは80年代半ば~90年代初頭のことだ。

 1979年にハウス食品からインスタントラーメン(袋麺)『うまかっちゃん』が発売。スタンダードな醤油、塩、全国チェーン『どさん子』や『サッポロ一番みそラーメン』(68年発売)などで知名度を高めた味噌に加え、白くクリーミーな豚骨スープの認知も進んでいた。

 68年、新宿に熊本ラーメン『桂花』が開店し、78年には『博多麺房 赤のれん』が西麻布にオープン。84年には秋葉原に『九州じゃんがららあめん』が創業し、辛子明太子『かねふく』の外食事業部が築地に『生粋博多らぁめん ふくちゃん』を開いた。醤油ラーメン全盛の東京に、着実に築かれていった豚骨ラーメンの橋頭堡。そして87年7月、ラーメン史に名を刻む『なんでんかんでん』が世田谷は環七沿い、羽根木交差点そばに姿を現す。

 創業をリードしたのは福岡市博多区出身の川原ひろしだ。80年代初頭、クラシックの声楽家を目指して上京。漫才コンビWけんじの弟子になったり、演歌の作曲家としてレコードデビューも果たしたり、ドリーマーとしてアクションを起こすも、芸の道では苦闘が続いた。そこで、彼はブレイクスルーの一手として、自らのソウルフードである豚骨ラーメンに着目。小学生の頃から長浜の屋台でラーメンに親しんでいた川原は、博多のホテルでフレンチの料理人として働いていた友人の岩佐俊孝に上京を誘い、ラーメン店の起業を決意する。

「『長浜ラーメン』の看板を見て、九州出身で長浜の味を知っている方が車を止めて立ち寄ってくれるようになったのです。本場の長浜ラーメン、しかも昔の濃い目の味にこだわったことで、店の評判はクチコミで広がっていったようです」(川原ひろし:『経済界』1997年2月25日号)

「東京の『博多ラーメン』は東京の人の好みに合わせて薄口の店が多いんですが、ウチは濃さを保つようにしてるんです」(岩佐俊孝:『週刊朝日』1994年7月29日号)

 九州ラーメン店が意欲的に進出し、80年中盤の東京には豚骨ラーメンの局地的なブームも訪れていた。しかし、提供店のほとんどは慣れ親しんだ関東人の舌に合わせ、スープの濃度をライトにチューニング。多くの関東人にとって、豚骨ラーメンは「白い見た目のこってりラーメン」という印象しかなかった。そう、『なんでんかんでん』の凶暴な豚骨スメルを嗅ぐまでは--。

 『なんでんかんでん』は、創業時から豚のゲンコツ(大腿骨)、頭骨を水でひたすら煮込み続けるというシンプルにして強力な製法をとった。強火で加熱され続けた豚骨は骨髄から旨み、油分が溶出し、とことん濃厚なスープに変貌する。こうしたド豚骨スープを飲み干せば、ざらりとした骨粉が丼の底にたまっているほどだ。しかし、強火によるガン炊きは強烈な豚骨臭という副産物も生む。店の外まで漂うスメルは関東人にはなじみが薄く、忌避する人も少なくなかった。職人たちが本場の再現に二の足を踏んだのも当然のことだ。

 しかし、『なんでんかんでん』創業時の羽根木付近は人通りも街灯も少なく、車だけが猛スピードで行き交う環状7号線沿い。バブル景気に湧く日本は地価、家賃も高騰しており、川原らにとってやむなく選んだ物件だったが、ここなら近隣に漏れ出る豚骨臭を気兼ねすることもない。かくして、この地から豚骨サクセスストーリーが、そして「環七ラーメン戦争」の戦端が幕を開ける。

■モータリゼーション×バブル景気が行列ラーメンを後押し

 ここで「ラーメン戦争」の戦場となった環七通りについて整理しておこう。正式名称は東京都道318号環状七号線。平和島(大田区)を起点に臨海町(江戸川区)まで環状に結ぶ道路だ。計画は関東大震災後の1927年に策定された都市整備計画に遡るが、長く用地買収が難航。全線開通へ向けて加速したのは64年東京オリンピック前のことだった。五輪の人流・物流を支えるべく、羽田空港から北区北部まで一気に開通。その後も長く整備が進み、85年にようやく全線が開通する。

 70年代までは世田谷区、杉並区、練馬区は未舗装も多く、車が運転しやすい道路は決して多くなかった。そこに、片側2車線の幹線道路として環七が開けた。ここが東京西部のモータリゼーションを進める主要道路になったのは言うまでもない。

 富裕層の象徴だった自家用車が中流家庭にも当たり前になってきた時代だ。60年代半ばは18歳以上における免許保持者は約1割に過ぎなかったが、84年には5000万人を超え、乗用車の保有台数も2600万台を突破。かくして、高嶺の花だった自動車も、80年代中盤には日常にビルトインした「生活必需品」になっていく。

 バブル期を象徴する高級車「日産シーマ」に憧れる若者たちはトヨタソアラ、日産シルビア、ホンダプレリュードに飛びついた。家族共用ではなく「自分の車」を手に入れ、機動力を高めた若者たちの目の前に広がった景色の一つが、目くるめくフードの百花繚乱だった。

 フードジャーナリストの畑中三応子によると、80年代に流行した外食の新業態は「アメリカンスタイルのカジュアルレストラン、シーフードレストラン、いけす活魚点、デリカテッセン複合店、京風ラーメン、カフェバー、大皿惣菜居酒屋、飲茶、海鮮中華、台湾小皿料理、エスニック料理」など。これらの店では「味・値段・サービス」にも増して、デザインと雰囲気、エンターテインメント性が重視されたという。「グルメ」というフレーズが人口に膾炙した80年代、「飲食スペースが刺激的な快楽消費の場に変わった」のだ。

 環八沿いにはカジュアルレストランが集積した「用賀アメリカ村」が登場。若者たちが車で大挙として押し寄せ、駐車場には順番待ちの行列ができたという。『ホットドッグ・プレス』『POPEYE』といったヤング情報誌はデートレストランが誌面を飾ったが、男同士でつるむ若者たちはデートフードではなくコッテリ・濃厚なラーメンに傾斜する。彼らが嗅ぎつけたのが『なんでんかんでん』の豚骨スメルであり、さらに「背脂チャッチャ系」の表面を覆う凶暴な背脂の沼だった。

 背脂チャッチャ系とは? 環七ラーメン戦争の戦端がまさに開かれようとしていた頃、『なんでんかんでん』とツートップを張る存在として客を集めたのが、板橋区ときわ台の『土佐っ子』である。こちらは連載第3回「1960」で紹介した『ホープ軒』と同時代に屋台を引き始め、環七や川越街道を流した古参。川越街道の下頭橋、そしてときわ台を拠点にした後、76年には同地に店舗を構えて人気を博す。

 この店の特徴こそ、「背脂チャッチャ系」とジャンルが生まれたほどの独自スタイルだ。ホープ軒に連なる豚骨醤油ラーメンだが、丼にスープを注いだ後の調理工程が特異。平らな網ザルにゼラチンぷるぷるの背脂をすくい、ひしゃくをかぶせてと擦りながら、丼の上で「チャッチャ」と上下に振るのだ。

 ザルの目からは背脂が飛び散り、白い脂粒子がスープの全面をビッシリと覆う。ホープ軒をはじめ、スープにコクを与える意味で背脂を加える店は存在したが、ギトギト脂だらけのルックスにまで昇華させた店は、この『土佐っ子』以前にはない。『なんでんかんでん』の豚骨スメル、そして『土佐っ子』の「背脂チャッチャ」。過剰なラーメンが、甘美なまでの魔性を放つ。環七は、まさに「刺激的な快楽消費の場」として若者たちを誘引したのだ。

■警察と住民が長蛇の行列と対峙した環七ラーメン包囲戦

 90年代初頭に開戦した「環七ラーメン戦争」。今では「環七通り沿いのラーメン店が覇を競い合った現象」として回顧されるが、当時は「ラーメン屋vs.住民」の紛争から始まったバトルであった。

 エンターテイナーの道を志したこともある川原の慧眼と行動力により、『なんでんかんでん』はメディアの活用に長けていた。雑誌の編集部にはクーポンをつけたプレスリリースを配信して掲載をアピールし、テレビにも多数登場。具材の海苔に食用インクでロゴを描いた「プリントのりの発明者」、「麺の茹で方で“粉落とし”を命名し、麺カタブームの火付け役」としてブランディングにも余念がなかった。その極みは、テレビ番組『¥マネーの虎』(2001年~04年)へのエンジェル投資家としての出演だろう。

 メディアへの頻出もあり、ピーク時には1日1000人以上の客が押し寄せた『なんでんかんでん』だが、90年代初頭の駐車場キャパは13台に過ぎなかった。店舗付近には違法駐車の列ができ、行列に気を取られる見物渋滞も発生。ただでさえ交通量の多い環七に、ボトルネックとなる「なんでんかんでん渋滞」が発生。違法駐車を避けた車にライダーが追突する死亡事故が発生したほか、反対車線に駐車して環七を横断したドライバーが轢かれる事故も発生。

 この状況に眉をひそめた地元住民はプラカードを持って監視。地元警察も数か月にわたってパトカーを常駐させるなど監視体制を強化したほどだ。94年の写真週刊誌『フライデー』は「死者まで出た! 東京環七『ラーメン屋戦争』の現場」と題し、パトカー2台、プラカード隊20名が並ぶ『なんでんかんでん』の現場を激写している。

 折しも、平日夕方のニュース枠には地殻変動があった。逸見政孝・幸田シャーミンのコンビによる「FNNスーパータイム」がスタートしたのは84年のこと。同番組のヒットを受け、「NNNライブオンネットワーク」(日本テレビ・87年開始)、「600ステーション」(テレビ朝日・89年開始)、「JNNニュースの森」(TBSテレビ・90年開始)と、各キー局が追随し、ゴールデンタイム前のニュース番組は雪崩を打って情報バラエティ色を強めていった。そこで格好のネタになったのが、環七ラーメン戦争をはじめとするトレンドフード、外食業界のニュースだ。こうして、「環七ラーメン戦争」は90年代のバズワードにのし上がった。

 ゼロ年代に入っても、メディアの注目は冷めない。2003年発刊のムック『ラーメン王・石神秀幸徹底調査最強のラーメン!』(マガジンハウス)では、ラーメン評論家の石神秀幸が「環七全店制覇に挑む!」と題し、内回り外回りの111軒を巡るルポを掲載したほどだ。ただ、ツートップの一角『土佐っ子』が創業者の引退などトラブルを抱え、1998年に閉店。『なんでんかんでん』も売り上げダウンの危機に直面していた時期でもある。

 2012年11月に、『なんでんかんでん』もクローズしたが、当時の川原は日本経済新聞の取材に「主要な顧客層の若者が車でやってこなくなったのですよ。7、8年前ころからはその傾向が顕著になり、客数が激減しました」と答えている。

 そう、メディアの過熱と裏腹に敗勢の兆候はあった。2006年には道路交通法が改正され、駐禁取締の厳格化によって環七も路上駐車が激減。駐車スペースを取りづらいラーメン店は客の減少に直面した。苦境に拍車をかけたのが、いわゆる「若者のクルマ離れ」だ。2000年には1600万人を超えていた20代の運転免許保持者も、2011年には約3割減の1163万人に。地方のロードサイドには「ファスト風土」文化が浸透したが、東京郊外の環七には厭戦ムードが漂っていたのである。

 90年代、過熱した環七ラーメン戦争に参戦したのは団塊ジュニア世代だった。携帯電話もメールもまだ普及していない時代、若者たちは車でレジャーにでかけ、同乗する車内でダベり、コミュニケーションを図っていた。しかし、ゼロ年代に登場したのはバブル崩壊後の低成長期に育ち、身の丈で遊ぶことを指向するゆとり世代。駐禁のリスクを犯して遠出することはないし、そもそも車に乗って遊びに出ていくこともない。参戦者が途絶えれば、ラーメン戦争も終戦を強いられるのが宿命だ。

 現在、環七で存在感を放つのは、2000年にオープンした『せたが屋』だ。豚骨・背脂チャッチャ系が猛威を奮った環七ラーメンシーンにあって、魚介を押し出した醤油ラーメンで勝負。翌年には、昼営業のみ屋号を変えて塩ラーメン専門店『ひるがお』として営業する「二毛作」スタイルを業界に先駆けて導入。駐禁取締厳格化をサバイブし、調味料なしでラーメンを作る『ラーメンゼロ』、女性スタッフのみで切り盛りする『小麦と肉 桃の木』などを打ち出し、創意と企画力でゼロ年代~テン年代のラーメンシーンを先導している。

 では、環七ラーメン戦争の中核になったツートップの現在は? あのスメル、背脂の雪景色は消え去ってしまったのか……?

 2012年の閉店を経て、川原ひろしは催眠術師や講演活動で活躍する一方、高円寺や渋谷などで『なんでんかんでん』店をプロデュースするなど、虎視眈々と再浮上をねらう。アーリーステージの味作りを支えた岩佐俊孝は1995年に独立し、下井草にラーメン店『御天』をオープン。初期『なんでんかんでん』で創り上げた濃厚・クサ旨の博多長浜ラーメンを提供し、熱い支持を集めている。『土佐っ子』の脂も消えず。『じょっぱりラーメン』(鴻巣市)など、背脂チャッチャ系」の灯を守り続ける出身者が意気軒昂だ。

 モータリゼーションの開花と団塊ジュニア世代の参入で熱を帯び、列島中が刮目するほどの煮えたぎりを見せた環七ラーメン戦争--。その余熱と残り香は、今なおラーメン業界の随所に漂っている。

佐々木正孝(ささき・まさたか) ラーメンエディター、有限会社キッズファクトリー代表
ラーメン、フードに関わる幅広いコンテンツを制作。『石神秀幸ラーメンSELECTION』(双葉社)、『業界最高権威 TRY認定 ラーメン大賞』(講談社)、『ラーメン最強うんちく 石神秀幸』(晋遊舎)など多くのラーメン本を編集。執筆では『中華そばNEO:進化する醤油ラーメンの表現と技術』(柴田書店)等に参画。

【ラーメンとニッポン経済】ラーメンエディターの佐々木正孝氏が、いまや国民食ともいえる「ラーメン」を通して、戦後日本経済の歩みを振り返ります。更新は原則、隔週金曜日です。アーカイブはこちら