世界は「狭い」それとも「広い」? 2つの感想の繰り返しが人生かも (1/3ページ)

【安西洋之のローカリゼーションマップ】

 新しく知り合ったイタリア人のオフィスを訪ねた際、たまにデスクの上に今まで手にした日本人の名刺をずらりと並べて、「誰か知らないか?」と聞かれることがある。

 それらの名刺の誰かの評判を確かめたい、ということでもない。ただ「世界は狭い」を実感したいのではないか、と想像する。名刺がない場合は、急に「タカシを知っているか?」とファーストネームだけで聞いてくることもある。よほどイタリアの日本人社会は小さいと考えているに違いない。

 が、そういう行為をバカにしてはいけない。似たようなことは誰でもやっている。東京で知り合ったイタリア人のマルコは、同じく東京に住むフランチェスコを知っているかもしれない、と思うものだ。どうせ東京のイタリア人社会など小さいに違いない、と。

 実際、外国の都市における同胞のコミュニティは間に1人か2人を挟めば、何らかのカタチで繋がっていることが多い。何世代にも渡っての「○○人社会」というレベルの話ではないが。

 実のところ、「世界は狭い」というのは仕事の分野や、ある社会階層に限った場合、実感度が高い。普段は距離の遠い場所に住み、仕事も趣味もまったく違う人と旅先で偶然に知りあって、「世界は狭い」とお互いに思うことはまずない。

 「6次の隔たり」との表現があるが、これは6人を辿れば世界の人たちと繋がる、との仮説だ。これをどの程度、普通の人が信じているのか知らない。ただ、真っ向から異論を唱えることもなく、「そんなものではないか」と想像しているのだろう。

偶然を必然にするための「世界は狭い」