組合の集まりに顔を出しても「おれが、おれが」 旧職の地位にしがみつく“定年あるある” (1/6ページ)

 プロレスラーの武藤敬司氏が「思い出と戦っても勝てねえんだよ」といったという。武藤氏がどういうつもりでいったのか分からないが、「思い出」の大切さに関しては同感である。私は思い出と戦ったりはしないけど。(勢古浩爾)

 思い出として残っているものには不朽の価値がある。そんなものと戦って、勝てるはずがない。現前の人物や光景のほとんどは思い出になりきれず、ただ消えていくだけのものである。思い出とは濾過されて残った良い記憶のことである。嫌な不快な記憶は、別の場所に澱(おり)のようにたまった毒である。廃棄するにかぎる。思い出は、良き日々や人々の懐かしさであり、過ぎ去った人生の彩りであり、ばかばかしい現在のなかの慰藉(いしゃ:なぐさめていたわること)である。

 未練というものがある。過去の形骸でしかない自分をいつまでも引きずっている。思い出は現在の自分に潤いを与えてくれるが、未練は現在の自分を掘り崩すだけである。未練とはくすぶっている自我である。自分で水をかけて消すこともできず、といって自分で火をくべて、再び赤々と燃えあがらすこともできない。ただ煙を出してくすぶっている自我に自分がむせているだけだ。そのむせ返りが自分でも納得できず、その不快さを周囲にまき散らす。それで浅ましくも自分の存在を知らしめようとする。

くすぶり続ける自我