【年の瀬記者ノート】草木供養塔から見えてくる山形の県民性 一木一草の中に神性を見る (1/3ページ)

高速道路の建設工事で伐採された木を弔うため建立された草木塔を指さす梅津幸保さん=米沢市万世町
高速道路の建設工事で伐採された木を弔うため建立された草木塔を指さす梅津幸保さん=米沢市万世町【拡大】

 今年10月、東北中央自動車道の山形県米沢市と福島市を結ぶ栗子トンネルの入口近くに一つの石碑が建った。石碑の中央部には「草木塔」と彫られている。聞き慣れない名の石碑を建立した万世大路(ばんせいたいろ)保存会会長の梅津幸保置賜民俗学会会長(73)は「高速道路の建設工事で山の木をたくさん伐採しましたから」と建立理由を説明する。建設工事で大量に伐採された草木を弔うために石碑を建立したのだという。(柏崎幸三、写真も)

 草木塔、あるいは草木供養塔という石碑は山形県の置賜地方に多くみられる。梅津さんによると、国内外で210基の草木塔が確認されていて、その8割以上が山形県に存在する。

 置賜地方に多く存在する草木塔の起源は江戸時代とされ、江戸時代建立と確認されたものだけで32基。最古は、米沢市入田沢塩地平の草木塔で、安永9(1780)年、米沢藩の上杉鷹山時代の建立で「草木供養塔」と刻まれている。

 だが草木塔の起源はさらに遡る。数カ国を支配した上杉景勝は関ケ原の戦いに敗れ、出羽国米沢30万石に減移封された。大勢の武士が米沢に移住したが生活に必須な薪が大量に不足。家老の直江兼続は、木の伐採を奨励し、米沢を流れる鬼面川(おものがわ)に帯刀堰を作り、山奥の伐採地から米沢城内まで川を使って流した。これを担ったのが「木流し衆」といわれた山の民で、川に流した木が本流から外れれば、川に飛び込んで本流に戻す仕事を業とした。木流しは全国的に行われたが、草木塔はなぜか山形県に多く残されている。