アルティザンとアーティストを分け隔てるもの コンテクストが大きな分岐点 (1/3ページ)

【安西洋之のローカリゼーションマップ】

 この1年ほどMade in Italyというブランドが海外市場で存在感を獲得している背景について、ある雑誌に連載で書いている。いわゆる中堅以下の企業の商品が、その規模とは「まるで相関関係がないかのように」認知度が高く評価を受けている事例が多い。その理由を追っている。

 その理由としてMade in Italyは「意味の転回」が得意というポイントがあるが、もう一つは、社会や企業が(フランス語の)アルティザンという資産に対して扱いが柔軟で巧みである、という点だ。日本語の「職人」とはかなり異なる定義や文化をもっているため、上記の連載ではあえてイタリア語のアルティジャーノという言葉をそのまま使っている(但し、日本では馴染みのない言葉なので、このコラムではアルティザンを使う)。 

 さて手を使って何かを作ることに関し、アルティザンだけでなくアーティストも同じだ。両者、共通した行動をとっているようにも見える。いったい両者は違うのか、同じなのか。

 20世紀の初頭、デザインの礎を作ったドイツのバウハウスの創始者・グロピウスは「アーティストとは実力のあるアルティザンである」と語り、アーティストとアルティザンは基本的に同じであるとの見方を示した。

 実際、ルネサンス工房においてアーティストとアルティザンという役割が分かれていたわけではなく、これらの2つが離れたのが近代であった。アーティストは個性ある特別な存在である、と。

 そこで20世紀初頭にグロピウスは「別離のまやかし」を指摘したのだと思うが、逆に20世紀はアーティストとアルティザンの乖離がより徹底した時代だった。

アルティザンの社会・文化的役割が問われている