老人の経験と若者の夢が新しい社会を生む 世代がつくる摩擦を乗り越えて (2/3ページ)

 したがって老人も風景として老人ばかりなのがウンザリなのであって、さまざまな世代が混じった風景があり、たまに若い人たちと言葉を交わせるのがちょうど自然だと思っている。頻繁に若い人と一緒にいればいたで「話についていけない」「若い人が気を遣ってくれているのが分かりストレス」との愚痴になる。

 あまりに分かりきったことである。それでも高齢化社会の象徴的エピソードを自ら体験していることを誇示するがごとく、この分かりきった事実をあえて口に出そうとする。自分自身が風景の員数に入ってないような勢いで語ることもある。

 気が若いのは大いに結構だが、同じ世代の毛嫌いに熱中するのは、社会的健全さに欠けている。文化的退廃と言えるかもしれない。行き止まりの路上に息が詰まる空気が蔓延し、救いがない…そんな感じだ。

 かつて評論家の加藤周一は、2008年にこの世を去る数年前、「暇な老人と暇な学生が新しい社会を作るに相応しい」と話していたことがある。老人の経験と若者の夢と勢いが一緒になる意義を語ったのだが、これを聴いてぼくはハタと膝を打った。ここにはお互いの希望がある、と。

 若い人は何とかして自分たちが生きやすい社会を作りたいと思う。想いも勢いもエネルギーもあるが、社会を動かす知恵と経験が少ない。そこで老人の力を借りると目的のことを実行する環境が得やすくなる。老人も「俺もまだ世の中に役立つのだ」と実感する。

老人と若者のファシリテーターの40代が活躍