「勉強は自分の窓を開けるということです。学ぶことで、今まで見ていたものとはまた違う何かを見ることになります。視界を広げるために学ぶのです。例として、『なぜ外国語を学ぶのか』を考えてみましょうか。日本語で『写真を撮る』という言葉がありますね。これは英語では『take a picture』、写真はテイクするものになります。しかしながら、ドイツ語では『写真を作る』と表現するのです」
▼大人の論理・常識で丸め込もうとするのは逆効果
神父は、同じ行為・現象でも“とる”と“作る”という言葉が持つ背景やイメージが異なると説明する。その上で、こう語るのだ。
「だからこそ、物事はその国の文化を持つ言葉でオリジナルを見ないといけません。真実を見るためには、そのものが何かを追究しないといけません。ですから、学校では他国の言語を学ぶという授業がなされるのです」
もし、外国語を学ぶ意味がそうであるならば、数学は? 国語は? 音楽は? 歴史は? と子供に問いかけ、親も考えてみる。
そして「お父さん(お母さん)はこう思うけど、自分はどう思う?」と、ある意味“対等な関係”での議論をしたほうが秀才煮詰まりタイプの子供の納得感を得やすいのではないか。すぐには効果が出ないかもしれない。しかし、少なくとも大人の論理・常識によって丸め込もうとするのは逆効果であることは確かだ。