今回、ジュディチさんは次のような例を紹介した。
子どもは仲間と手を繋いで輪をつくり踊るのが好きだ。ある子は、この踊りを描きたいと思った。彼が描いたのは、手を繋いだ子供たちの姿だが、1人1人の身体が斜めになっている。
斜めにすれば踊りの動きが表現できる、と彼は期待した。しかし子どもの彼も、身体が斜めになっただけでは動いているように見えないと感じる。表現力の不足を痛感したわけだ。
レッジョ・エミリア教育ではアトリエスタと称されるアートの専門家が現場にいるが、動きが描き切れない彼はアトリエスタに相談する。その会話のなかで子どもがハッと気づいたのは、紙を筒状に丸めれば、輪になって踊っているように見える、ということだ。
豊富な道具と相談する相手がいる。しかも、このアトリエスタは何らかの回答や解決策を提示するわけではない。子どもの「探索」にひたすら付き合うパートナーであることを、ジュディチさんは強調する。
ちょっと考えてみよう。
我々の人生とはつまるところ、1人でジグザグな道なき道を辿りながら向かうべき方向を探し出し、何らかの表現をして、誰かのフィードバックを得、そして前進していくプロセスを何度も繰り返す。
時に1人での探索に猛烈に不安になることもある。表現をもう少し上手く工夫できれば、ちょっと離れたコミュニティーに手が届くかもしれない。その際、我々は信頼に足る人に並走してもらえる術を知り、使える道具のありかをみつける勘が働きさえすればいい。
その意味で、レッジョ・エミリア教育は実践知である。「人生の名人」など目指していない。アート重視だから、いわゆる感性溢れる情操教育をコアにおいている、と理解すると違うのではないか。