【著者は語る】作家・安部龍太郎氏 「平城京」


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 ■なぜ遷都? 2つの大きな疑問を追う

 西暦710年に都となった平城京の物語を書くに当たって、2つの大きな疑問に行き当たりました。

 一つは藤原京に都を移して16年しかたっていないのに、どうして新しい都を築く必要があったのかということ。もう一つは708年2月に遷都(せんと)の詔(みことのり)が出されて2年後に都を移していますが、そんな突貫工事がどうして可能になったかということです。

 この謎を追っていくうちに、前者は唐との外交問題が密接に関わっていることが分かりました。日本は663年に唐と新羅との連合軍に白村江の戦いで大敗し、朝鮮半島から撤退せざるを得なくなりました。

 それ以後、両国との緊張状態がつづきますが、672年の壬申の乱で勝利した天武天皇は、唐との宥和(ゆうわ)政策に向けて大きく舵をきります。

 その方針を受け継いだ藤原不比等は、702年に粟田真人(あわたのまひと)を執節使とした遣唐使を送り、唐との和平交渉を成功させたのです。

 このとき唐から国交回復の条件として示されたのが、冊封国となって方針に従うということでした。

 その方針の中には、律令制度の導入、仏教を国教とすること、国内の反乱の鎮圧などと並んで、長安型の都を築くということもありました。

 天子は南面するという言葉があるように、長安の王宮は都の北側にあります。ところが藤原京は都の真ん中に王宮があるので、不適格だとされたのです。

 そこで急遽(きゅうきょ)都を作り替えることになり、詔からわずか2年で遷都を実現することになりました。

 平城京の広さは東西約4.3キロ、南北は約4.7キロです。広大な原野だった盆地を地ならしし、大路小路を作り、秋篠川や佐保川の付け替え工事をする。

 そうして大極殿や内裏の建物を移築したのですから、その技術力や労務管理の能力は驚異的。日本人がこの時代から極めて優秀だった何よりの証しです。

 主人公は阿倍船人。白村江の戦いで水軍の大将を務めた比羅夫の子、造平城京司の長官(かみ)を務めた、宿奈麻呂の弟です。

 船人は兄の求めに応じて都造営の現場監督になりますが、思いもかけない困難と災いが次々と降りかかってきたのでした。(1944円 角川書店)

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【プロフィル】安部龍太郎

 あべ りゅうたろう 1955年福岡県生まれ。国立久留米高専卒業後、作家を志して上京。89年から1年間「週刊新潮」に連載した「日本史 血の年表」(90年、『血の日本史』と改題して刊行)で衝撃的なデビューを飾る。94年『彷徨える帝』で直木賞候補。2005年『天馬、翔ける』で第11回中山義秀文学賞、13年『等伯』で第148回直木賞受賞。新たな歴史観に基づく歴史小説を次々に発表している。著書に、『信長燃ゆ』『維新の肖像』『義貞の旗』『家康(一)自立篇』『宗麟の海』-など。