子育てに活かしたい、福沢諭吉の母の「当たり前の教え」 (1/3ページ)

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  • 諸富祥彦『あの天才たちは、こう育てられていた! 才能の芽を大きく開花させる最高の子育て』(KADOKAWA)

 親が子どもに教えるべきこととは何か。慶應義塾大学を創設した福沢諭吉は、早くに父親を亡くし母親に育てられた。明治大学・諸富祥彦教授は「福沢の進歩的な姿勢は、母の清廉潔白で慈悲深い性格から、人としてあるべき道を学ぶことでつくられた。子供の心の教育には、親自身が、1人の人間としてきちんと生きている姿を見せることが大切」と読み解く--。

 ※本稿は、諸富祥彦『あの天才たちは、こう育てられていた! 才能の芽を大きく開花させる最高の子育て』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

 身分制度嫌いは父親ゆずり

 江戸時代後期、下級武士の家に生まれながらも、新生日本の思想的リーダーとなった福澤諭吉。父・百助(42歳)、母・順(30歳)のあいだに、5人兄妹の末っ子として天保5年12月12日(1835年1月10日)に生まれた諭吉は、幼い頃から「門閥(もんばつ)制度」を嫌っていたといいます。

 「門閥」とは、簡単にいえば「家柄」や「格付け」のこと。豊前国(ぶぜんのくに)中津藩(現在の大分県)の下級武士の子として生まれ育った諭吉は、位が上の武士の子どもに対しては敬語を使わなければならないなど、特権階級であるはずの武士同士であっても身分差が存在することを、身をもって体験していました。

 諭吉の父も息子と同じく、権威や封建制度といった古い風習を嫌っていたようです。父は幼い頃から勉学に秀でていたものの、家が貧しかったため、自分の師と慕う儒学者のもとで学ぶことができなかった。諭吉が晩年になるまで「門閥制度は親の敵(かたき)」と口にしていた原因の1つは、ここにありました。

 近所の孤児のシラミをとってあげる母

 ただ、父・百助は酒豪で、一説によるとそれが原因で45歳という若さで脳溢血により亡くなってしまいます。この時点で、百助の妻、つまり諭吉の母・順は未亡人、いまでいうところの「シングルマザー」となりました。

 では、その後、諭吉の母親はどうやって5人の子どもたちを育てたのか?

「決して喧しいむつかしい人ではない」