お城探偵

千田嘉博 譲位の舞台・江戸城 国民思い寄り添う「宮城」 (1/2ページ)

 5月1日、天皇陛下が即位された。皇居の宮殿「松の間」で「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」を行い、続く「即位後朝見の儀」で国民の代表に会い、「象徴としての責務を果たす」とお言葉を述べられた。ご即位を心からお祝い申し上げたい。

 これら皇位の継承に関する重要儀式を行った皇居の宮殿は、もとの江戸城西の丸にある。西の丸は江戸時代、退位した将軍の御殿などとして用いられていた。その西の丸が皇居になったのには理由がある。歴史を151年前にさかのぼってみたい。

 江戸城には本丸と二の丸、そして西の丸に主要御殿があった。しかし、本丸と二の丸の御殿は文久3(1863)年11月の火災で焼失した。この5カ月前の同年6月には西の丸御殿も焼失していたので、幕末の江戸城は主要な3つの御殿をすべて失うという異常事態に陥った。そこで幕府は西の丸御殿を「仮御殿」として急ぎ再建し、元治元(1864)年に復興した。慶応元(1865)年には二の丸御殿も再建したが、この御殿は2年後の慶応3(1867)年に再び焼失した。

 幕府は本丸御殿をついに再建できなかったので、明治元(1868)年10月、明治天皇が江戸城へ到着されたとき、ふさわしい御殿は西の丸にしかなかった。このことが結果として西の丸を皇居の中心にしたのだが、もし明治元年に本丸や二の丸の御殿が残っていたら、そちらが皇居の中心になったのではないかと思う。

 さて、厳粛な「即位後朝見の儀」の後に、天皇陛下は赤坂御所へいったん戻られた。陛下の車列は皇居正門を通って進まれた。皇居に向かって手前に正門石橋が、奥に正門鉄橋(二重橋)が架かる姿は、近代以降のわが国の歴史に特別な意味をもった。この屈曲しながら2度、堀を渡る道筋は、そもそも江戸城西の丸の大手道で、17世紀初頭に成立した江戸城の設計に由来した。

 皇居正門(正門石橋の奥に建つ櫓(やぐら)門。江戸時代とはわずかに位置が異なる)一帯は、四角く南に張り出している。これによって西の丸南側の堀を渡って攻める敵の側面に、弓矢や鉄砲で反撃する「横矢」を効果的にかけられた。さらに西側に位置した外桜田門(そとさくらだもん)に迫った敵に対しては、堀を隔てて圧倒的な高さの石垣上から迎え撃つことができた。

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