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中止の「慰安婦像」展示企画展、公的イベントとして適切だったのか (2/2ページ)

 芸術祭の実行委員会は来場者による撮影を自由としたが、ソーシャルメディアへの画像・動画の投稿は禁止とした。津田氏は開幕前に「『実物』を見ることで、表現の自由や検閲の問題について考える契機にしてほしい」と説明。県の担当者も「政治的賛否やイデオロギーを問うものではない」と述べたが、展示や解説内容に恣意(しい)的な面が否めず、だからこそ不快だとする抗議の声が県などに殺到したのだろう。

 津田氏は、展示中止が発表された3日の記者会見で「想定を超えた抗議があった。表現の自由を後退させてしまった」と述べた。強迫めいた抗議は論外だが、幅広い層の人々が鑑賞する公的な芸術祭だけに、表現の自由は無制限ではない。芸術や表現の自由を隠れみのにした政治的プロパガンダ(宣伝)だとすれば悪質だ。

 3年に1度開かれる同トリエンナーレは国内最大規模の芸術祭として知られ、4回目の今回は名古屋市と豊田市を会場に国内外から90組以上のアーティストが参加、10月14日まで繰り広げられる。美術、音楽、映像、演劇などが展開され、外国人労働者の問題や高度情報化と監視社会、生命倫理の問題など、全体として社会批評性に富んだ良質な作品も多い。また参加作家の男女比をほぼ同じにするなど、他の芸術祭にはない試みもある。トリエンナーレのごく一部分である「表現の不自由展-」が、こうした内容を霞(かす)ませるとしたら実に不幸だ。

 大量の情報で感情があおられている時代として、津田氏は芸術祭全体のテーマを「情の時代」としたが、皮肉にも情をあおる展示が混乱を招く結果になった。芸術は万人にとって心地良いとは限らないし、行政の過度の干渉も文化イベントにはふさわしくないが、公的な芸術祭の運営には、公益に配慮した冷静さが必要だろう。(黒沢綾子)

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