渡邊大門の日本中世史ミステリー

なぜ本能寺の変にまつわる研究には珍説・奇説が多いのか (1/3ページ)

渡邊大門
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 今回は表題のとおり、なぜ天正10年(1582)6月に勃発した本能寺の変の研究に関しては、珍説・奇説が多いのかを考えてみたい。最初に、簡単に本能寺の変の概要に触れておこう。

 天正10年(1582)6月2日未明、備中高松城(岡山市北区)へ向かったはずの明智光秀は、突如として進路を変更し、織田信長が泊まっている本能寺に行き、襲撃した。光秀の襲来を予想していなかった信長は、あっけなく自害に追い込まれた。

 しかし、信長を討った光秀も11日後の山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、戦場から逃亡する途中で土民に襲われ、あっけなく落命した。大きな問題として残ったのは、「なぜ光秀は信長を討ったのか?」ということになろう。この点については、変が起こった直後から、さまざまな説が流布していた。

 ところで、話は少し変わるが、歴史研究というのは、信頼できる史料によって行われねばならない。信頼できる史料というのは、一次史料である。一次史料とは、同時代に書かれた書状や日記などである。しかし、いかに同時代の書状や日記であっても、間違いが書かれた可能性がある。

 ゆえに、歴史研究では史料批判という作業が欠かせない。史料批判とは、書状などの文体や文言、紙の質、花押の形状などなどを子細に調べ、歴史史料として使用できるのかを確認することだ。ここで問題がなければ、そのまま研究に使うことができる。

 一方、二次史料というものがある。二次史料は後世になって記述、あるいは編纂されたものである。軍記物語や家譜などが該当し、一般的には一次史料よりも質が劣るといわれている。その理由は、どこにあるのだろうか?

 後世に成った史料は、何らかの意図があって編纂される。たとえば、家譜は単に家の歴史をまとめるだけでなく、先祖を顕彰する意味合いでも編纂される。したがって、仮に事実であっても、先祖の悪いことを書かない。

 黒田家の歴代(黒田官兵衛など)を記した『黒田家譜』は、17世紀に成立した。そもそも藩主が命じて、貝原益軒に書かせたものなので、黒田家歴代当主に関する悪いことは一切書かれていない。そういうものなのだ。

 話は戻るが、光秀が信長を襲撃した動機については、一次史料にまったく書かれていない。そこで、二次史料に拠るか、周辺の状況(たとえば、光秀と信長との関係)から考察を進めなくてはならない。古典的な説では、二次史料に基づく怨恨説が圧倒的だった。

 怨恨説でおなじみなのは、光秀が信長から酷い仕打ちを受けたという話である(いろいろなパターンがある)。小説、テレビドラマ、映画などで繰り返し再生産され、私たちの脳髄にすっかり刻み込まれている。とはいえ、怨恨説は二次史料に基づいた荒唐無稽な話が多く、まったく信が置けないのである。ただの与太話にすぎない。

 しかし、近年になって織豊時代の研究が進展すると、さまざまな史料を駆使して新説が提起された。いわゆる「黒幕説」である。それぞれの論者は自説を「~黒幕説」とは命名していないが、便宜的に「~黒幕説」とネーミングしておこう。

 「朝廷黒幕説」もその一つである。戦前において、信長は御所を修理するなどし、朝廷への奉仕者と評価された。しかし、戦後になって天皇への風当たりが強くなると、「実は、信長は朝廷を蔑ろにしようとしたのではないか?」という観点から、研究が進められた。

 具体的には信長が地元で使用していた暦を朝廷に強要したこと、京都馬揃えで正親町天皇に軍事的に圧力を掛けたことなどが取り沙汰された。そこで、危機感を抱いた朝廷は光秀に指示し、信長の暗殺を指示したということになろう。

 しかし、それらは考えすぎといわざるを得ず、結局、話はもとに戻って、信長は朝廷の奉仕者であるとの結論に至った。同時に史料の誤読、論理の飛躍が指摘され、今となっては支持する研究者は少ない。

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