渡邊大門の日本中世史ミステリー

天下分け目の関ヶ原合戦 大誤算だった西軍の没落大名5選 (1/2ページ)

渡邊大門
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 慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦が行われ、東軍の徳川家康は西軍に大勝利を収めた。その結果、多くの西軍に属した大名は没落し、悲惨な目に遭った。そのうち、5人の主だった西軍の没落大名を取り上げることにしよう。

1.宇喜多秀家〔改易〕

 宇喜多秀家は豊臣秀吉の養女・豪(前田利家の娘)と結婚したので、若くして異例の大出世を遂げた人物である。「備前中納言」と称され、備前、美作のほか、備中や播磨の一部も領していた。もちろん、関ヶ原合戦では主力と目され、大いに期待されていた。

 しかし、宇喜多氏は慶長4年(1599)末から翌年の初めにかけて家中騒動が勃発し(宇喜多騒動)、主だった重臣たちが秀家のもとを去って行った。むろん、家中騒動によって、家の弱体化を避けることができなかった。軍事力もである。

 合戦当日、宇喜多軍は必要な軍勢を確保すべく、多くの牢人(浪人)衆を召し抱えていたが、これでは軍勢を統率することが十分にできなかった。結局、宇喜多軍は東軍を相手に奮闘したが、あっけなく瓦解した。西軍敗北の要因でもある。

 西軍の首謀者だった秀家は、戦後すぐに逃亡して、薩摩の島津氏を頼った。当然、改易され、備前など約57万石の所領を失った。慶長8年(1603)、秀家は家康のもとに送られ、その3年後に八丈島に流罪となった。島津氏は家康と和睦したので、秀家が用済みになったからだった。

 その後、秀家は帰郷を希望しながらも実現せず、明暦元年(1655)に八丈島で亡くなった。その間の貧しかった逸話は数多く残っている。結局、秀家は人生の大半を八丈島で送ることになったのだ。なお、子孫は八丈島で大いに繁栄したという。

2.長宗我部盛親〔改易〕

 土佐の長宗我部盛親も西軍の主要メンバーだったが、合戦に敗れて改易となった。実のところ、盛親は減封処分ということで、ほかの場所に替地を与えられることになっていた。しかし、盛親の家臣が一揆を起こしたので(浦戸一揆)、家康から責任を追及されて改易になったのだ。

 戦後、大名への復帰を目指して京都市中で寺子屋を開き、徳川家康への面会を希望したが、ついに叶わなかった。間に入った仲介役の蜷川道標は、かつて長宗我部氏から恩義を受けていたが、面倒に関わることを嫌がったという。当初、盛親はすぐにでも復活できると思っていたが、その夢は幻となって消えた。

 慶長19年(1614)にはじまった大坂の陣では、豊臣方に与して翌年に敗北。逃亡したところを徳川方に捕縛されて、六条河原で斬首となった。これにより、長宗我部氏は完全に滅亡したのである。

3.石田三成〔死罪〕

 石田三成は慶長4年(1599)閏3月の訴訟事件(七将が三成の処分を求めて訴訟した事件)により、居城の佐和山城(滋賀県彦根市)で逼塞していた。一方、徳川家康との関係は、決して悪くなかったといわれている。

 三成に決起を促したのは、目に余る家康の専横だった。このままでは豊臣政権が崩壊すると危ぶんだのである。三成は三奉行(増田長盛、長束正家、前田玄以)に加え、反家康の急先鋒だった毛利輝元の助力を得て、家康への挙兵を決意した。しかし、三成が良かったのは、ここまでである。

 徳川家康は黒田長政らを使って、西軍の主だった武将を東軍に寝返らせるため工作を行った。その結果、合戦前日の9月14日には、総大将の毛利輝元や小早川秀秋が東軍に寝返った。この時点で軍事力に差が開き、西軍の敗北は確定的だった。

 関ヶ原合戦後、敗北した三成は逃亡して再起を期したが、田中吉政に捕縛された。三成は西軍の首謀者だったので、重罪を逃れることができず、小西行長や安国寺恵瓊とともに六条河原で処刑されたのである。もちろん、所領は没収された。

 父や兄が守っていた居城の佐和山城は、東軍の軍勢に攻められて落城した。これにより、石田氏は滅亡したのである。

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