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支那そば、中華そばでは不正解…日本で最初の「ラーメン」はなんと呼ばれていたか (2/3ページ)

 ■在日中国人留学生から上がった「支那」の使用禁止

 中国人の側からは、留日留学生を中心に、1915年の対華21カ条要求によって反日感情が高まって以降、日本の「支那」呼称使用に反省を求める声が起こる。

 そして、1930年5月、南京国民政府の外交部が、「支那」の語を使用した日本の公文書の拒否を指示した。すると、同年10月、浜口雄幸内閣が、中国の正式呼称を「中華民国」に変更することを閣議決定する。

 さらに翌年1月、国会で幣原臨時総理代理兼外相が、「支那」を一切使わず、「中華民国」「民国」「日華」を使う画期的な演説をした。だが、議場の松岡洋右から非難されると、幣原はその後すぐに軟化して、答弁に「支那」も使用するようになった。

 1932年の満洲国建国にともない、外務省は、既存の条約の適応範囲の問題から、国名としては「支那国」や「支那」の使用禁止を促し、それらを地理的呼称に限定しようとした。だが実際には、公文書でも徹底せず、軍部を含めて日本社会一般では、「支那」が広く使われ続けた。

 「支那そば」の呼称は、こうした1910~30年代の政治・社会情勢のなかで広まっていった。それは、たとえ多くの人々が、その呼称自体に侮蔑の意味合いを含めず、一般名称として用いただけだったとしても、在日華人や中国の人々からすれば不本意なものであった。

 ■ラーメンの語源は広東風あんかけ麺という説

 他方で、浅草の來々軒(1910年創業)などでは、「ラーメン」という呼び方もされていた。

 1928年、東京・上野の「翠松閣」の日本人料理長・吉田誠一が、『美味しく経済的な支那料理の拵え方』(博文館)を刊行し、日本の料理書として初めて「拉麺(ラーメン)」を掲載した。

 小麦粉にかん水を加えて手延べする「拉麺」は、明清時代までに山東省で発展し、西方・南方へと広がったと考えられている。

 ただし、日本語のラーメンの語源は、この山東式「拉麺」ではなく、広東系の餡かけ麺である「鹵麺(ルウメン)」であるとする説が有力である。

 さらに、札幌では第2次世界大戦前からいち早く、「支那そば」よりも「ラーメン」という呼称が、一般的になっていたと考えられる。

 というのも、王文彩という山東出身の料理人は、シベリアのニコライエフスクで店を開いていたが、1920年の尼港事件に遭って、樺太経由で札幌に逃げてきていた。

 1922年、北海道大学の正門前に「竹家」という食堂を開いた大久昌治・タツ夫妻は、留学生の紹介で王文彩に会うと、食堂を「支那料理竹家」とすることにした。

 竹家では、糸のように細く切って油で揚げた豚肉を具とする「肉絲麺」が一番人気になった。しかし、客たちはそれらを、「チャンそば」「チャン料理」という中国人を侮蔑する言葉で注文した。

 それを見かねた大久タツが考案したというのが、日本の「ラーメン」という呼称の始まりの一つである。

 竹家による「ラーメン」の呼称は、麺を「拉(ラー)」(引き延ばす)からではなく、「好了(ハオ・ラー)」(出来上がったよ)という掛け声の「了」から命名されたものであった。

 ■GHQの勧告により「支那そば」は「中華そば」に

 さて、日中戦争期、日本では「支那」が、侮蔑的意味・侵略対象としての語感を強くもつようになった。

 他方、中国では「支那」こそが、日本の対中蔑視の象徴として敵視されて、戦後を迎えることになった。

 戦後の日本では、国民政府の代表団が、「支那」の語の使用禁止を要求した。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、「支那」の語について調査して、「支那」が軽蔑の意をこめて使われてきたことを指摘し、「中華民国」「中国」が相応しい呼称であると勧告した。

 さらに、1949年に中華人民共和国が成立すると、新政権に対する「新中国」という呼称が広く用いられるようになり、それに伴って、日本で「支那」の呼称がようやく使われなくなっていった。

 そして第2次世界大戦後、アメリカの占領期に、「支那料理」「支那そば」「シナチク」ではなく、「中華料理」「中華そば」「メンマ」という呼称が広まった。

 1960年代までには、「そば」というと「中華そば」のことを指すことも多くなり、それに伴って「日本そば」という言い方もできた。なお、メンマは、中国語の「麺碼」(麺のトッピングの意味)に由来するものと考えられる。

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