「すいません、やったのは俺です」 取調室でカツ丼が出てくることはあるか?

2016.2.27 17:08

 取り調べ中にカツ丼をおごることはない

 「すいません、やったのは俺です」

 カツ丼を噛みしめるように食べていた容疑者が、涙ながらに自白を始める。語られる容疑者の生い立ち。それを聞いていた刑事たちもつられて涙ぐむ。固く閉ざされていた容疑者の心を開いたのは、刑事たちの人情と、温かな一杯のカツ丼だった……。

 刑事ドラマや映画を通じて、取調室といえばカツ丼というイメージが日本人の中に定着している。しかし「カツ丼で自供を迫ることは今も昔もあり得ません」。こう話すのは、神奈川県警の元刑事で、現在は犯罪ジャーナリストとして活躍する小川泰平氏。ということは、警察が容疑者にカツ丼を食べさせるというのは真っ赤なうそということか。

 「うそというよりも、正確ではない。そもそも取り調べ中にカツ丼をおごれば、その刑事は首が飛びます」

 推定無罪の原則により、容疑者はまだ犯人と決まっているわけではない。その状態でカツ丼を食べさせることは、絶対にNGだ。場合によっては冤罪を生み出してしまうこともある。空腹に耐えかねた容疑者が、実際にはやっていないものを「やった」という危険性があるのだ。

 冤罪にならないまでも、「あのときはカツ丼を出されたからはずみでうそをついてしまったんだ」と前言撤回し、捜査は行き詰まる。あるいは裁判において「食わせてやるから罪を認めろといわれた」と一転して無罪を主張ということになれば、警察への信頼は地に落ちる。

 そのため、取り調べでは、刑事と容疑者の正面からの心理戦が繰り広げられる。そこにカツ丼が入り込む隙はないのだ。

 しかし、すべての取り調べが終わり、起訴され、あとは裁判を待つばかりとなれば話は変わってくる。容疑者は被告人となり、留置所から拘置所に移送されることになるが、ここまでで警察の仕事はほとんど終わりだ。

 そしてカツ丼の出番となる。留置所に迎えがやってくるのは午後の一時。移送の直前に昼食として、取り調べを担当した刑事がポケットマネーでカツ丼を食べさせる、というのが事の真相のようだ。

 カツ丼と警察官には深いつながりがある

 「裁判前であっても、自白した内容から、懲役は確定だろうなという人がいる。そうすると“長い旅”になるわけです。『カツ丼でも食えよ』『じゃあ、ごちそうになります』と、元気で勤めあげろよという気持ちで、私もカツ丼をおごっていました」

 そもそもカツ丼と警察官には深いつながりがある。24時間、事件が起これば即出動だから、出前を頼むとき、その品目は非常に限られる。

 まず除外されるのが麺類だ。注文したあとに事件の知らせが入ろうものなら、署に戻ってきたときには、汁は完全になくなり、麺は伸びきっていて、食べられたものではない。

 そして警察署内は非常に慌ただしい。出前が届き、さて食べようと思ったら、事件の対応を協議するために自分のデスクが占領されている。どいてくれとはとても言い出せない雰囲気だから、部屋のすみに移動することにする。

 高いモビリティを確保するためには、何皿にも分けて盛られている定食系は避けたほうが無難だ。といった具合に、メニューは丼ものに限られていき、体力勝負の警察官としては、ボリュームがあるほうが望ましい。

 さらに、ぜいたくが許されるなら、出先から帰ってきて、レンジで温めなおせばおいしく食べられるものがいい。こうした幾多の要望にたえるメニューがカツ丼というわけだ。

 刑事たちにとって定番のカツ丼はまた、留置所や拘置所の食事と比べれば豪勢だし、少し値が張るとはいえ、刑事の懐が痛むほどではない。だから、気前よく被告人におごることができる。

 フィクションの世界では泣き落としの道具として活躍するカツ丼だが、現実には罪を認め、贖罪の旅のはなむけとして供されるのはそういうわけだ。

 「連れてこられて、『カツ丼食べられますか』という人はいまだにいるようですが、取り調べというのはギリギリのやり取りです。食べ物でつろうなんて考えではだめ。それを警察官が心している限り、取調室でカツ丼が出てくることは絶対にありませんよ」

 (唐仁原俊博=文)

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