知れば知るほど怖くなる京都人のマナー 空気が読めない者は生き残れない

2017.11.12 13:02

 厳格なしきたりと独特な慣習が残る古都・京都。礼儀作法の中に潜むマナーの真髄を作家の入江敦彦が説く。

 空気が読めない者は京都で生き残れない

 京都人はイケズ(意地が悪いさまを表す関西の言葉)だと言われる。その根拠は表裏があるからだという。はっきり感情を顕わにしてくれたほうがすっきりするじゃないか! とか。そういう糾弾に出合うと、つくづく日本人は薄っぺらくなりにけりと哀しくなる。そしてウンザリする。

 けれどわたしは発言者に対してウンザリ顔を見せたりしない。なぜってそれが京都式だからだ。根拠のない言いがかりにも「そうでっか。そら、すんまへんでしたなあ」とにっこり笑うのが彼らである。すなわち世知に長けている。それは相手への思い遣りでもあり、心地いい人間関係を構築するうえでの常識。大人のマナーだ。京都人をイケズ呼ばわりするのは実社会を知らない若ゾーの言い種といえよう。

 京都人は裏表があるのではない。表と裏しかないような単純な思考法をしないだけだ。あるいは言葉や行動にも綾があり襞(ひだ)があり奥行きがある。また、それを知っているので常に相手の心の綾に紛れ、襞の裏に潜み、奥に隠れた真意を探ろうと考える。

 現在は他都道府県からの流入も増え、だいぶ事情も変わってきたが、洛中(豊臣秀吉が土塁の壁で囲んだ京都の中心地)に暮らすなら人間心理の読解術の会得は必須である。祖父母から、両親から、近所の“うるさ型”たちから京の子供らは他者への斟酌を叩き込まれる。空気が読めないんですよーなんてへらへらしていては生き残れない。

 幕府から政治機能を奪われ、京都は江戸時代以降一貫して職住一体型のビジネス都市として発展してきた。だから相手との適切な距離感を測り、気持ちを推量し、直接表現を避けるやり方は規模の大小にかかわらずビジネスの場でも同様である。大金の動く商取引でも、店頭接客の場でも、あるいは八百屋で葱一本物色するのも変わらない。丁寧な斟酌が常に求められる。

 なぜ商談を断るとき買い手が平伏するのか

 むろん斟酌の中には腹の探りあい的側面もあるが、たぶん特徴的なのは商談不成立における遜(へりくだ)りだろうか。

 お隣の大阪では「考えさせてもらいまっさ」が断りの言葉として有名だが、京都はもっと含みを持たせる。直截にダメ出ししないのは似ているが、彼らは「私のような者には勿体ない」と謙遜してみせるのだ。しかも拒絶の度合いが強いほど稲穂のごとく頭を垂れる。普通なら平伏するのは売り手のはずだが京都は逆なのである。

 ビジネスなのだからダメなものはダメでいいじゃんという意見もあろう。が、ビジネスもまた、いやビジネスだからこそ京都人は血の通った人間関係として捉える。なので相手の気持ちを顧慮斟酌して遜るわけだ。

 この現象は彼らの商売のスパンが長いことも理由だろう。100年前にお世話になったから、100年後にお世話になるかもしれないから遺恨なきよう慮る。嘘のような本当の話。

 京都は老舗が多い。そのビジネスは過去と未来を背負っている。いまさえよければ……という利益至上主義では商いは長く続かない。京都人はプラグマティカルにそれを知悉している。老舗で買うという行為は、消費者もまたその店の過去と未来にかかわることにほかならない。ならばYesかNoか損得勘定のみで割り切れるわけがない。

 譬えとしてわかりやすいので八百屋の話で続けてみよう。通常より飛び抜けて高ければ葱を買わないで帰るのは簡単だ。また、もしお店が顔見知りなら値切ることも可能だろう、けれど、上物を格安で買った【過去】を大切に思えばそんな足元を見るような真似はできない。と、京都人は考える。

 同時に、そういうシチュエーションはより濃厚な情報が手に入るチャンスでもある。なぜ高いのかという解析、これから安くなるのかという推算、さらには葱でなく芹での代用の可能性など新たなビジョンの獲得に繋がるかもしれない。葱を諦めほかの安価な旬野菜を購買することで見過ごしていた季節=価値を発見することもできよう。それらの延長線上に【未来】がある。

 老舗に限らず京都の面白いところはスーパーにも地産地消商品が多く並び、個性豊かな近隣の商店街は培ってきた消費者との絆ビジネスで地域に根を張り、かつその隙間には「加茂のおばちゃん」と呼ばれる農家直送のリヤカーや軽トラの振り売り(店を構えず、自ら野菜を運んで呼び売りする商売形態)がそれぞれバッティングすることなく共存してしまうところであろう。

 客にも品格を要求するのが京都流

 京都には【おいおい税】というのがあるのをご存じだろうか。「お客様は神様だ」と言わんばかりに店員を「おい!」と呼びつけるようなタイプの顧客に対して値段を吹っかけ、それを偉そうな態度にかかる税金だとする考え方だ。京都は高級な商品を扱う店ほど明確な値段が記されていないから、そういうことも平気で起こりうる。

 もっともこんな逸話も、もはや都市伝説の域ではある。ただ、これを京都人のイケズだとか意趣返しだとか考えているようでは本質は見えてこない。売り手が厳しく己を律してマナーを遵守するように、彼らは客に対しても品格を要求するのだ。ときには利益を度外視してまで。むろん、そういう場合だって「お客様のように結構なご趣味のお方に喜んでいただけるような品はございません。ほんまに残念なことどした。おおきに、ありがとうございます」と平伏するのだが。

 ちなみに、この返答の襞には様々な感情が隠れている。( )で括ってお見せしよう。「(一見さんのくせに)(横柄な)お客様のように(もう)結構な(ひどい)ご趣味の(卑しい)お方に喜んでいただけ(ても嬉しくないので、売)るような品はございません。ほんまに(あなたのような客がきてしまって)残念なことどした。おおきに(迷惑)、(時間の無駄を)ありがとうございます」

 怖い? だが怖いからこそ暖簾をくぐる前に襟を正す心構えが生まれる。

 わたしは【おいおい税】を払うのも、上記のようなお言葉を賜るのも真っ平なので、節度と敬意を持ってお店と付き合ってゆきたいと思う。加茂のおばちゃんから葱一本買うときも労いや時候の挨拶を添えるのを忘れたくない。

 いかがだろう。面倒臭そう? だが要は互いを尊重する心さえあればいいのだ。さすれば言葉や行動は自ずと伴う。それこそ茶道のように。

 お点前というやつを傍から眺めていると作法、作法で雁字搦めのようだが、その実、1つひとつの様式には意味がある。作法ありきなのではない。理に叶っているから作法化したのだ。なにより茶の湯において大事なのは主人と客の平等。客同士の平等。一期一会の精神。作法など、それらに比べたらどうでもいいこと。些末事なのだ。

 なにしろ士農工商絶対の時代に茶席では帯刀を許されなかったのだ。茶聖・千利休は商人であった。--京都式ビジネスマナーを考えるときの、それは枢要な手掛かりである。

 礼儀作法以外にもある! 他都道府県民が知らない“京都式”

 ●同じ言葉を繰り返す

 年配の旦那衆は、「そうです、そうです」「なるほど、なるほど」と相槌をよく打つ。

  ●雑誌の京都特集はチェック

 確認しては、「またここ載ってはるわ。しばらくは行かれへん」と感想をもらす。

 ●横並びを好む

 人より抜きん出るのを嫌い、行事の際は「うち以外にどんなとこが、参加しはるんです?」と確認。

  ●「本家」「元祖」のネーミングが好き

 歴史と発祥を大事にし、「あれはじめたんは、うちなんです」と誇示。

  ●姿が見えなくなるまで見送ってくれる

 見送られる側も、角を曲がる際に最後の挨拶をする。

 ●「おばんざい」に否定的?

 京都の家庭料理を紹介する新聞連載のタイトルが「おばんざい」だったことから、その名称が全国区に。なので「おばんざいって、それなんえ?」と言う高齢者も。

 ●鴨川畔は等間隔

 いい距離感を保つという暗黙のルールがあるのか、鴨川畔ではカップルが等間隔で座る。

 参考文献:『京都あるある』(TOブックス)

 入江敦彦(いりえ・あつひこ)

 作家。1961年、京都市出身。94年渡英し、現在ロンドン在住。著書に『京都人だけが知っている』(宝島SUGOI文庫)、『イケズの構造』(新潮文庫)など。

 (作家 入江 敦彦 写真=amanaimages、James Beresford(入江敦彦))

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