【文芸時評】「政治的正しさ」は文学をつまらなくする 12月号 早稲田大学教授・石原千秋

2017.11.26 15:06

 神奈川芸術劇場で舞台「作者を探す六人の登場人物」を観た。山崎一の演技は安定しているが、他の役者がいまひとつで(僕の役者の判断基準は「笑い方」がうまいかどうかだ)、あまりいいできではなかったが、テーマは興味深かった。悲劇の役を担わされた小説の登場人物が「人間」として現れ、自らの逃れられない運命にあらがおうとしながら、決して逃れることはできない悲しみを演じてみせる趣向。小説の中で、登場人物は悲しんでいるかもしれないという空想を妙に実感させられた。

 先月この欄で、大澤信亮の新潮新人賞の選評の一節「セイコを強姦(ごうかん)して死に追いやったのはケイスケではない。君なのだ。それを世に問う罪の一端を私も担おう」を「文壇版道徳の時間」として笑ったが、もしこうした意味における選評だとしたら反省しなければならない。

 東浩紀・市川真人・大澤聡・福嶋亮大の座談会『現代日本の批評』(講談社)が刊行された。文芸批評がまだかろうじて意味を持っていた1975年から2001年までの批評を総括したものだが、大量の固有名詞が解説なしに羅列されていて、若い人にはほぼ何も理解されないだろう。ただ、「カルスタ」(カルチュラル・スタディーズ)の「政治的正しさ」が批評をつまらなくしたという趣旨には共感する。何度かこの欄で書いているように、「正しいことならバカでも言える」というのが、最近の僕の信条である。「政治的正しさ」は対象を批判するのに便利な道具だが、それがどれだけ世の中を息苦しくしているか、文学をどれだけつまらなくしているか。

 松本卓也「健康としての狂気とは何か-ドゥルーズ『批評と臨床』試論」(文学界)が面白い。ジャック・デリダの『法の力』を次のように要約している。「正義を実現するために、ひとは定められた法に従わなければならないが、しかし法に従っているだけでは単に事例をアルゴリズムによって処理しているだけにすぎず、そこに『正義』と呼びうるようなものは何もないと論じ、『正義』と呼びうる行為をなすためにはアルゴリズムに還元することのできない不可能なもの(l’impossible)に関わらなければならない」と。「カルスタ」の「政治的正しさ」がまさにこれで、「正義」を「アルゴリズム」(決まり切った手順)で処理しているにすぎない。

 松本論文の眼目は、自閉症スペクトラムとも指摘されているルイス・キャロルがなぜ『鏡の国のアリス』を書き得たのかという問いにある。「キャロルにおける規則の偏愛は、まさにデリダ的な不可能なものを拒絶することによって成り立っている」が、「逆説的にも、表面の上に徹底的にとどまることこそが、〈他者〉に侵入されることなしに深層と関わることを可能にしたのではないか?」と言うのだ。これがタイトルの意味である。「政治的正しさ」のつまらなさは、「表面の上に徹底的にとどま」っていないところにある。

 この論文を読んで思い出したのが、いま注目の劇団イキウメによる舞台「散歩する侵略者」(前川知大作・演出、シアタートラム)である。「宇宙人」たちが人間から「概念」を奪う。その結果、その言葉は知っていても、その言葉の意味や使い方がわからなくなる。〈言葉の意味は、その使い方である〉と言ったヴィトゲンシュタインを思い出させる。この舞台こそが〈表面の上に徹底的にとどまることの可能性〉を逆説的に形にしている。今年随一の傑作だ。大窪人衛の気味悪さは鳥肌が立ちそうだったし、最後のシークエンスで内田慈の笑いに響く悲しさも、まちがいなく結末を予想させるみごとな演技だった。

 坂口恭平「家の中で迷子」(新潮)は、目次の紹介で「ああ、『鏡の国のアリス』型の異世界探検記か」とがっかりさせる。実際に読めば、迷い込んだ「森」を体感的に感じさせる佳作なのだから、こういう下手な「引き札」はないほうがいい。

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