上杉謙信の“無欲と義の姿勢” 天下盗りの野望なき戦国武将に学ぶこと

2018.4.29 13:10

 「名将」と呼ばれる偉人には共通点がある。「生き方ルール」とでも呼ぶべき信条をもっていることだ。「プレジデント」(2018年2月12日号)では、5人の名将の信条について専門家に考察してもらった。今回は上杉謙信の「無欲と義の姿勢」という信条について--。

 「上杉謙信は戦国大名の常識がなかった」

 群雄が割拠した戦国時代に、上杉謙信ほど“義”を重んじた武将はいない。当時、朝廷が地方の有力者に与えていた官位はほぼ形骸化してしまい、いわゆる下剋上が横行していた。そのなかにあって、彼は天下盗りの野望も持たず、武田信玄との5度におよぶ川中島の合戦も、信玄に追われた信濃の豪族たちを救済するためのものだった。

 真剣に物事に取り組む様子を「一所懸命」という。一所というのは土地のことで、武将にとって、土地を支配し、年貢を徴収することが領国経営の基盤だった。だから、それを奪おうとする者とは戦うわけだが、謙信は他の武将のように己の欲のために合戦を仕掛けたことは1度もないといっていい。いい意味で戦国大名の常識がなかったといえる。彼は「おれは越後の人と土地を守る。それが俺の役目だ」と決めていたのだろう。

 戦略としては、越後の豪族たちから信頼を勝ち取ることだった。土地も一旦は謙信に返上させ、そのうえで私することなく誰もが納得する再配分をしたのだ。そして、彼らを直臣として越後国内のいくつもの砦を任せたのである。そうした主従の“絆”は、無敵を誇る上杉軍団となり、その自信は足軽一人ひとりにまで浸透していく。

 ▼なぜ武田信玄は「甲斐の国に何かあれば謙信を頼れ」と言ったか

 それには、越後一国を統治する理念が必要である。現代の会社に当てはめればミッションといえるだろう。上杉謙信が掲げたのが「第一義」という言葉である。禅の思想から生まれたものだが、それをよく物語る逸話がある。ライバルの武田信玄でさえ、死の床にあって「甲斐の国に何かあれば謙信を頼れ」と遺言したと伝えられているのだ。

 史実は確かではないが、謙信の美談に「敵に塩を送る」というものがある。信玄と今川氏真との同盟が破棄された後、氏真は海のない武田領への塩の輸送を全面禁止した。謙信はこのことを耳にし「卑怯な手段を取るべきではない」と、越後の商人が塩を送ることを黙認したという。こんな逸話が生まれるほど、宿敵に対しても感情にとらわれた選択はしなかった。

 なぜ上杉謙信は「軍神」と呼ばれたのか

 ところで上杉謙信は、合戦に臨むに際して、居城・春日山城の奥にある毘沙門堂にこもって戦勝の祈願を行った。毘沙門は北方を守護する四天王のひとりだ。その声を聞き、軍配を執った戦いはほとんど負け知らず。越後が、京から見て北に位置することから、謙信は「われを毘沙門天と思え」と周囲を鼓舞した。

 やがて、家臣たちもそれを信じたのだから、そのカリスマ性はすごいというほかない。これは、イメージ戦略のようなもので、謙信が非常にストイックな生き方をし、欲得にまみれていないから、軍神としての位置づけが可能になったのだろう。

 また謙信の強さは、自由な精神にあったと思う。誰もが常識や欲に支配されることで不自由になるものだが、自分に素直に生きた謙信はそれと無縁な存在で、力を存分に発揮できたのではないか。

 いま、ビジネスパーソンが上杉謙信から学ぶべきことは“信念”を持つということにほかならない。加えて、明確なビジョンをはっきりとさせ、自己実現をめざすのである。ただし、それは個人の栄達ではなく「誰かのため」という幅広さが必要だ。会社をひとかたまりの岩だとすれば、自分はその一部となって、岩全体を維持していくという気概を持つことである。

 最後に、48歳で世を去った謙信の辞世の句を紹介しよう。それは「四十九年一睡の夢一期の栄華一盃の酒」というものだ。いかにも酒好きだった彼らしい。自分の人生などひと眠りの間に見た夢のようにはかない。人の一生の栄華など一杯の酒にすぎなかったというものだ。悟りにも通じる心も謙信にふさわしい。

 ▼上杉謙信に学ぶべきポイント

 1:常識や欲に支配されずに力を存分に発揮する

 2:ライバルに対して感情にとらわれない選択をする

 3:信念と明確なビジョンで自己実現をめざす

 童門冬二(どうもん・ふゆじ)

 歴史小説家

 東京都企画調整局長、政策室長などを歴任し、1979年に作家として独立。著書は『小説上杉鷹山』『異説新撰組』『小説二宮金次郎』『小説立花宗茂』など多数。

 (歴史小説家 童門 冬二 構成=岡村繁雄 写真=iStock.com)

普通の営業マンでも"抜群の成績"は作れる

自信のない人ほど"年下"を呼び捨てにする

リーダーが複数いると組織は劇的に動く

閉じる