【島を歩く 日本を見る】船が運んだ入植者たちの夢 利尻島(北海道利尻町、利尻富士町)

2021.3.12 09:00

 真冬に、日本最北端の稚内(わっかない)市から船で約1時間40分かけて利尻(りしり)島へ向かった。日本の有人国境離島の一つだ。「利尻富士」の愛称で親しまれる標高1721メートルの利尻山が島の中央にそびえ、一面白銀の世界は神秘的に映った。

 利尻山は、かつて先住民であるアイヌの信仰対象でもあった。島の語源はアイヌ語の「リイシリ」。「リイ」は高い、「シリ」が島という意味で、“高い山の島”を指す。

 島の基幹産業は漁業だ。とくに「利尻昆布」は高級品として名高く、京都をはじめとする全国の料亭などで重宝されている。島の特産品であるエゾバフンウニやキタムラサキウニも人気があり、毎年夏に開催される「北海島まつり」や「うにうにフェスティバル」では大勢の観光客が足を運ぶ(昨年は新型コロナウイルス禍により中止)。

 利尻島は、17世紀半ば頃から松前藩などによって本格的に開拓が始まった。ニシンや昆布、アワビなどの海産物が豊富に獲(と)れることで、幕末から明治にかけては、東北地方や日本海沿岸地域から多くの人が漁場を求めて利尻島に入植した。

 江戸時代の商人、河村瑞賢(ずいけん)が見いだした日本海西回り航路を往来していた北前船(きたまえぶね)は、大量のニシンを小樽や松前へ運んだ。その後、本州各地へと送られたニシンは食料としてだけでなく、畑の肥料にする「〆粕(しめかす)」にも利用され、日本の農業も支えていた。 

 徳川家康からアイヌ民族との独占交易権を認められていた松前藩は、「運上金」の納入を条件に、商人に交易権を委託して漁場の経営を請け負わせた。アイヌ民族の人たちは、漁場の働き手として厳しい労働に従事させられていたという。

 明治末期から昭和30年頃まで、ニシン漁で島の景気は隆盛を極めたが、ニシンが不漁となってからは、利尻昆布やウニなどが島の漁業を支えるようになり、現在に至る。

 入植者たちの故郷の伝統や行事、信仰、方言などは、今も島の集落に根付いている。例えば鬼脇(おにわき)地区の「南浜獅子神楽(みなみはまししかぐら)」。富山の越中衆によって越中獅子舞が持ち込まれたもので、町の無形民俗文化財にも指定されている。

 かくも厳しい自然の中に切り開かれた集落や漁場、神社などを歩くと、入植者たちの果てない夢が南北の海道を渡り、幾つもの年を重ねて稀有(けう)な島を形作っていったのだと感じる。

 ■アクセス 稚内港からフェリーで向かう航路のほか、新千歳空港や札幌丘珠(おかだま)空港からの空路もある。

 ■プロフィル こばやし・のぞみ 昭和57年生まれ、東京都出身。元編集者。出版社を退社し、世界放浪の旅へ。1年後に帰国して、『恋する旅女、世界をゆく-29歳、会社を辞めて旅に出た』(幻冬舎文庫)で作家に転身。主に旅、島、猫をテーマに執筆およびフォトグラファーとして活動している。これまで世界60カ国、日本の離島は100島をめぐった。令和元年、日本旅客船協会の船旅アンバサダーに就任。新著は『今こそもっと自由に、気軽に行きたい! 海外テーマ旅』(幻冬舎)。

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