日本の家の「いさぎよさ」が息づいている 幸田文が今日の女たちに伝えたかった秘密 松岡正剛

2014.2.12 20:25

 【BOOKWARE】

 文(あや)さんの父君は幸田露伴である。生活の術と芸術の目をとことん躾(しつけ)られた。祝い事ができないでどうする、片付けは見かけのためじゃない、台所仕事は音がやさしくなくちゃいけない、雑用が創造を生むんだ、始末をつけるのが人というもんだ…。その他あれこれ、いろんなことをつねに仕込まれた。それというのも5歳で母を、8歳で姉を、22歳で弟を亡くしたからだ。24歳で酒屋の三男と結婚したのだが、ばかばかしくて離婚、露伴に学びながら一人娘の玉を育てた。

 そんな事情もあって、露伴は文さんの3軒ほど先に住んで、ちょくちょく覗きに来てはちょっかいを出していた。父と娘のあいだでどんなやりとりがおこっていたのかは、名文『父・こんなこと』や『月の塵』や『季節のかたみ』に詳しい。なかで「月の塵」には、文さんが幼い娘とお供えものをしながら月見をしていたら、そこへ露伴がやってきて孫と遊んだのち、「人を厭うも人も恋うも、何年つづくものかねえ」とポツンと言ったのがたいへん印象的だったということが書いてある。月にはそういう人の世の塵がいっぱいたまっているんじゃないかという感想だ。文さんの随筆はどれを読んでも身に染みるものだが、これもそういうひとつだった。

 文さんは物語の書き手としても達者だった。姉弟や親子の微妙な感情を美しい言葉でみごとに描いた『おとうと』、置屋の女中を主人公にして成瀬巳喜男の映画でも有名になった『流れる』、祖母から受けたるつ子の着物人生を追った遺作『きもの』など、いずれも瑞々しい。けれども、何度読んでも納得させられるのは、随筆である。露伴の「しつけ」がどんな文章からも伝わってくるとともに、その手際や間合いの呼吸から、実にたくさんの日本の「家」の価値が匂いたってくる。

 このことは、のちに母にも勝る名随筆『小石川の家』『幸田文の箪笥の引き出し』などを書いた青木玉さんにも受け継がれた。いったい露伴はこの女たちに何を仕掛けたのであったのか。感服するばかりだ。

 【KEY BOOK】「父・こんなこと」(幸田文著/新潮文庫、452円)

 露伴が病魔に侵されこの世から去っていくまでの一部始終を、克明に綴った珠玉の記録文学。気になる人をもつ者ならば、目を通しておきたい必読書だ。文さんはいつのころからか、自分が父の死をとことん見極めなければいけないと心に決めていたようで、しかし父の最期を綴るにはもっと淡々たる言葉づかいが必要だと自分に言い聞かせたらしく、その気迫と配慮とが絶妙に交わったままに綴られている。『こんなこと』は露伴の日常茶飯を炙り出す。

 【KEY BOOK】「月の塵」(幸田文著/講談社文庫、620円)

 文さんの随筆に入るのはこの本からがいい。露伴の体の具合が悪くなってきたとき、自分は父のことを書くのだと決めた当初の気合というか、気っ風というか、そういう生々とした覚悟のようなものが、まことに微細な文章となって伝わってくる。ひとつずつの随筆は短めで、たいてい季節感が入っている。露伴の言い分と自分の間隔とのずれもしょっちゅう出てくる。でも、どんな随筆も父への敬意が香(かぐわ)しい。いつまでも読んでいたい随筆だ。

 【KEY BOOK】「季節のかたみ」(幸田文著/講談社文庫、660円)

 63歳から75歳までの随筆集。それまでの父をめぐる随筆にくらべて、さすがに文さんの年季も入ってきたので、屈託のなさ、押し通すところ、世間に対する平然とした距離感、四季折々の出会いの深みなど、いっそう滋味深い。「春の声」「くくる」「台所育ち」「なくしもの」「壁つち」など、いずれも泣かせる。この魅力、いったい何だろうとずっと思っていたのだが、そうか、これはおそらく明治生まれの日本女性の「いさぎよさ」というものだと確信した。

 【KEY BOOK】「きもの」(幸田文著/新潮文庫、662円)

 ぼくは福原義春さんと組んで「蘭座」という会を主宰している。毎回、参加者全員に本をプレゼントしているのだが、先だっては『きもの』を選んだ。当日は着物コーディネーターの江木良彦さんの話を挟んだからだ。この小説は東京の下町に育ったるつ子が、おばあさんの示唆に導かれて着物にめざめていくという話で、文さんの遺作になった。自伝的ではあるが、香りが高いのに操作を加えていない爽快感がある。文さんは他人にどう思われても平気な人だったのだ。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS (動画))

 ■まつおか・せいごう 編集工学研究所所長・イシス編集学校校長。80年代、編集工学を提唱。以降、情報文化と情報技術をつなぐ研究開発プロジェクトをリードする一方、日本文化研究の第一人者として私塾を多数開催。おもな著書に『松岡正剛千夜千冊(全7巻)』ほか多数。「松岡正剛千夜千冊」(http://1000ya.isis.ne.jp/)

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