タイ、カンボジア間の国際鉄道が近く開通 物流やアクセス向上に期待
太平洋戦争初期に旧日本軍が全通させ、ポル・ポト政権時代に資本主義を象徴するものとして破壊されたままとなっていたカンボジア国鉄の北線(プノンペン~ポイペト間=約385キロ)が1月中にも開業する。タイ国鉄の終着駅アランヤプラテートともレールが連結され、早ければ2019年前半にバンコクとプノンペンを結ぶ国際鉄道の一番列車が汽笛を鳴らす見通しだ。両国間の物流が向上するほか、カンボジア北部にある世界遺産アンコールワットなどとのアクセス網も広がると期待されている。
日本軍が運行
カンボジア国内における鉄道建設構想の歴史は古い。確認されている最古のものが、1889年にフランス領インドシナ(仏印)の民間資本がタイのラーマ5世に申請した西北部バタンバンとタイ東部チャンタブリーを結ぶルートだった。
ところが、安全保障上の理由から申請が見送られると、第一次世界大戦終結後までカンボジア国内で鉄道が整備されることはなかった。
1926年、隣国タイがバンコクから国境の街アランヤプラテートまで鉄道を敷設すると、当時の仏印政府も32年に首都プノンペンと北西部モンコンブリー(シソポン近郊)の区間約335キロを整備。タイ国境まで約60キロの地点にまで迫った。しかし、当時のサイゴン(現ホーチミン)で産業界を牛耳っていた仏印資本が商圏を奪われるとして猛烈な反対運動を展開。ミッシングリンクとして残ることになった。
転機は40年6月のパリ陥落だった。アジアでも支配権を失ったフランスに代わってこの地に勢力を伸ばしてきたのは、天然資源を求め南下政策を取る旧日本軍だった。
41年12月8日、太平洋戦争の火蓋が切って落とされると、バタンバンにあった日本軍はタイに向けて進軍を開始。国境を越えてバンコクに向かった。
このとき、大量の兵士と軍需物資の輸送を行うために必要とされたのがプノンペンとバンコクを結ぶ直行列車だった。日本軍は開戦後わずか2週間でミッシングリンクにレールを敷くと、主に軍用として運行を開始した。74年後の今日、復活する国際列車は戦争を機に完成したのだった。
その後も、この鉄道は数奇な運命をたどった。日本の敗戦後、カンボジアは53年に独立を果たし、鉄道も運行を再開。バンコクとの間を往復した。しかし、国境紛争をめぐってタイと対立すると、61年には国交を断絶。鉄道の運行も停止され、再び列車が走行することはなかった。続く近代文明を否定したポル・ポト政権時代には軌道や駅舎など鉄道施設が軒並み破壊され、シソポンからポイペトの区間はレールが引き剥がされてしまった。
タイ軍部が具体化
戦後、この地には、中国からベトナム、カンボジア、タイ、マレーシアを経由してシンガポールに至る「インドシナ半島縦貫鉄道」構想が何度も持ち上がる。だが、ベトナム戦争やカンボジア内戦などでことごとく頓挫した。タイとマレーシアが観光目的で国際鉄道を季節的に細々と運行するだけで、長らく構想は棚上げ状態となっていた。
一気に具体化したのは、タイでクーデターにより軍部が政権を掌握したときだった。タイのプラユット暫定首相はカンボジアのフン・セン首相とトップ会談を2015年末に実現。南部経済回廊建設にも寄与する国際鉄道の運行で合意をした。
それから3年余り。半世紀以上にわたり放置されたままとなっていたカンボジア国内の鉄道網は再び整備され、地域住民も運行を心待ちにしている。国境駅ポイペトの駅前で屋台の飲食店を営むブンさん(54)もそうした一人。半世紀前の光景をかすかに覚えている。「国際鉄道が完成すれば人の流れも多くなって経済が活性化する。楽しみだわ」と話した。
タイ側でもすでに準備が進められており、出入国管理を行う国境の駅舎も完成した。戦争をきっかけに誕生し、激しい内戦とともに運行停止を余儀なくされた国際鉄道は間もなく復活する。(在バンコクジャーナリスト・小堀晋一)
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