田中秀臣の超経済学

「さざ波」発言、内閣官房参与の職を辞するほどの“舌禍事件”か

田中秀臣

首相に“お墨付き”与える役目

 内閣官房参与という政府の役職がある。首相に対する公式の政策助言者という立場であり、非常勤の公務員でもある。経済政策の中核である「財政」に関しては、高橋洋一氏(嘉悦大学教授)を、菅義偉首相は指名した。高橋教授は、元財務省官僚であり、長く日本の経済政策の立案に関わってきた。特に、小泉政権の時には郵政民営化などで活躍したことで記憶される。近年は、積極的な評論活動や、ユーチューバーとしても著名である。私も高橋教授とは、昨年の終わりに共著で「日本経済再起動」(かや書房)を出したばかりであり、彼の主張ともに、人柄も理解している方だ。

 その高橋教授が最近、マスコミを騒がした。きっかけはツイッターでの発言である。高橋教授は、20年3月から21年5月初旬までの主要国(フランス、米国、インドなど)の100万人当たり新規感染者数の動向を掲示した上で、「日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑」と書いたことである。

 この発言自体は、図表の新規感染者数の動向が、日本は主要国に比べて格段に低いレベルに抑えられていることを指摘し、その上で、東京五輪中止の声に対して呆れ笑いをしただけである。確かに品はないかもしれないが、この発言はワイドショーやニュース番組などで以下のように取り上げられた。

 「言いたいことはわからないでもないが、言葉の選択が悪い」「笑笑とはどういうことだ。緊急事態宣言で我慢したり、亡くなったりしている人がいる状況をあざ笑っているように思える」などである。なかには、新規感染者数の話題を「死亡者」に読み替えて報道するメディアもあった。

 高橋教授の発言が、コロナ禍での感染者やその関係者をあざ笑うものではないことは明瞭だ。根拠が乏しい五輪中止の主張自体に呆れているわけである。だが、任命者の菅首相にマスコミが殺到し、菅首相は高橋教授の発言について釈明することになった。

 この「さざ波」発言そのものは、高橋教授は前から行っている。問題とされた発言の2日前には、「欧米から見ればさざ波の中、(1)日本が数千億円の違約金を払って中止、(2)無観客を最低ラインで実施の二択。合理的には(2)なので、(1)は政治利用だろ」とツイッターに投稿している。それに続いて、五輪中止の署名活動をする人たちを批判している。

 ところが、高橋教授が、日本の緊急事態宣言の行動制限は欧米に比べれば「屁みたいな」ものだとツイートしたことがまた問題を招いた。実際にこの表現に至っては、よほどの言葉狩りを好む人たちでなければ、単に下品なだけである。だが、結局、これを機に高橋教授は参与を自ら辞した。ご本人が思っている以上に残念な事だ。

 もちろん、冒頭で述べたように、内閣官房参与には特に政策決定への関与は求められていない。安倍政権下での浜田宏一イェール大学名誉教授の役割もそうだったが、すでに方向性や具体的な内容が決まった政策へのお墨付きを与えるか、あとは、まさに首相からの質問に回答を与えることが役目だ。しかし、党内基盤が弱く、また、お世辞にも国民とのコミュニケーションに長(た)けているとは言えない菅首相には、高橋教授の存在は経済政策の方向性を世の中に伝えるにはいい手段だったろう。

日本経済に暗雲か

 多くの国民は、うわべのものであれ、肩書を重視している。内閣官房参与とそうでないのとでは、高橋教授の発言を世間がどう判断するか大きく異なるだろう。おそらく、高橋教授自身は内閣官房参与を辞めても「なんの変化もない」と思っているにちがいない。実際に菅首相との関係や、彼の発言はこれまで通りだろう。だが、肩書や見かけを重んずる人たちが多いことを侮るべきではない。

 高橋教授は「『NHKと新聞』は嘘ばかり」「『官僚とマスコミ』は嘘ばかり」(いずれもPHP新書)の著者であり、既存のマスコミ批判について連日のように発言している。これを快く思わないマスコミ関係者も多いだろう。もちろん、いま挙げた両方の著作を読めば、批判されたマスコミ側が愚かなだけだったことがわかる。だが、今回のテレビなどの報道をみても、高橋教授をたたくことに重点が置かれていて公平とは言えなかった。

 なかには、高橋教授が内閣官房参与の仕事で国から報酬を得ていたとするワイドショーもあった(テレビ朝日系情報番組「羽鳥慎一モーニングショー」での玉川徹氏の発言)。この発言については、すぐに高橋教授自身が無報酬での勤務であったことを自身のYouTubeチャンネルで明らかにしている。個人批判の文脈で、あることないことを言うテレビの“風土”を端的に表している。

 高橋教授の経済政策は、コロナ禍や不況に苦しむ人たちに積極的な経済支援を行うことを主張するものだ。積極的な財政政策や金融政策を行うことだ。政府と国民との間に立ち、当たり前の意見をずばりと言える人は、実は現在の経済政策を議論する場にはあまりいない。マスコミと世論の一部は、事実上の言葉狩りによって、政府の役職から反緊縮政策の専門家を追い出したことになる。

 言葉狩りではない、と思う人も多いかもしれない。しかし、表現に問題はあるにせよ、それは本当に内閣官房参与の職を辞するほどのものだったのか、大いに疑問である。この結果、緊縮的な経済政策を好む政治家、財務省、マスコミ、ワイドショー民は留飲を下げているだろう。

 当たり前だが、不況やコロナ禍で、政府がなにもしないことや、緊縮財政・金融政策を採用することは、国際的な経済政策の流れに逆らう以上に、むしろ偏狭な“カルト的傾向”だと言える。そして、この緊縮カルト的傾向は、日本では無視できないほど強い。今回の舌禍事件は、この緊縮カルトに勢いを与える出来事であったことは間違いない。“高橋洋一追放劇”は、日本の経済政策の行方に想像以上の暗雲をもたらすことだろう。

田中秀臣(たなか・ひでとみ) 上武大ビジネス情報学部教授、経済学者
昭和36年生まれ。早稲田大大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学。専門は日本経済思想史、日本経済論。主な著書に『経済論戦の読み方』(講談社現代新書)、『AKB48の経済学』(朝日新聞出版)など。近著に『脱GHQ史観の経済学』(PHP新書)。

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