【飛び立つミャンマー】高橋昭雄東大教授の農村見聞録(5)

2013.7.19 05:00

 ■ウー・カラー家の隆盛と没落(下) 病魔が奪った大規模農家の座

 1994年、ミャンマー農業省の客員研究員をしていた私は、2度目の全世帯悉皆調査のためにZ村を訪れた。ウー・カラーは74歳、ミャンマー人としてはかなりの高齢で、病気がちであった。88年に軍政が成立してから6年、村長職は彼の娘婿であるコー・ウェーチョーに移っていた。ウー・カラーの一族は、政権が替わってもなお、村の政治の中心にいたのである。ちなみにウーもコーもMr.という意味の敬称であり、ウーは地位や年齢が高い人、コーはそれが同等であると思われる人に対して付ける。

 ◆娘婿も村長に

 87年に調査したとき、コー・ウェーチョーは、ウー・カラーの家に妻と4人の子供と一緒に暮らしていた。ミャンマーでは結婚と同時に親と別居し、自分の家を建てて所帯を構える(これをオー・クェデー「鍋を分ける」という)のが普通であるが、傍に居て親の面倒を見なければならない、別居するだけの金銭的裏付けがない、近所に適当な土地がないなどの理由で親と同居する場合も見られる。また、同居する場合、妻方に住むか夫方に住むかについて明確な規範はない。都合の良い方に住むのがミャンマー流だ。

 コー・ウェーチョーの場合、当面は妻の親であるウー・カラーと同居し、十分な経済的蓄積をしてから別居しようという意図があった。事実、彼は90年にウー・カラー宅の斜め向かいの土地を買って、高床ではない、ちょっとモダンな家を建てて一家で移り住んだ。そのとき彼の妻は8エーカー(約3.2ヘクタール)の水田をウー・カラーから分割贈与された。

 また、コー・ウェーチョーは同居中に1エーカーの菜園も取得していた。彼は目端が利く農業経営者で、鶏を大量飼育したり、サバガーという魚と稲を同時に育てる農法を採りいれたりと、それまでZ村にはなかった農法を次々と導入した。彼が村長になったのも、そのような進取の気性とウー・カラーの暗黙の影響力であった。

 ところが、98年にコー・ウェーチョーは脳卒中で倒れ、翌年には亡くなってしまった。まだ54歳だった。彼の治療費のため水田も菜園も売り払われ、一家は土地なしとなった。また彼の4人の子供のうちでたった一人の息子であるソウ・ナインも酒浸りになって、35歳の若さで落命した。

 ミャンマーには医療保険制度がないため、治療費のかさむ病気にかかると土地、家屋、貴金属などをいっぺんに売り払わざるを得なくなり、大金持ちも一挙に貧乏人に没落してしまうのである。貧困に陥る最も大きな要因が、世帯構成員の病気や事故だといわれている。

 ◆田畑を切り売り

 ウー・カラーは96年に、1年ほど寝込んでから亡くなった。この治療費のために8エーカーの水田が売られた。彼にはコー・ウェーチョーの妻を含む3人の娘と1人の息子がいるが、息子のミン・シュエーが16エーカーの水田と菜園と宅地を相続した。彼は気立てのいい青年であったが、妻に菜園で野菜を作らせて行商させるだけで、自分はほとんど働かなかった。水田を切り売りしながら生計を立てていたが、ついに昨年、村で最も広い菜園と宅地をヤンゴンに住むシャン族に売り払ってしまった。

 農地改革時はミャンマー国民の70%を占めるビルマ族への農地配分が優先されたが、21世紀に入り水田がチン族やインド系住民に売られ、菜園や宅地はカレン族やシャン族に売られて、この村はいろいろな民族が共住する村へと変化しつつある。

 こうして、ウー・カラーが人望と政治力によって手に入れた村で最も広い水田と菜園は、すべて他人の手にわたり、彼の子供たちはみな土地なし貧困層に転落してしまった。

 ミャンマーの村には、農地耕作権を保有するものと保有しないものが相半ばして存在し、農家の耕作権保有規模格差も非常に大きいが、大規模農家が次の世代では一挙に土地なしになり、逆に小規模農家が短期間で広い土地を保有するような現象がしばしば観察される。階層性が持続することと、その中身が固定的であることとは全く別の問題なのである。=随時掲載

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