今年1月に開催されたミャンマー・ブックフェアに仲間と参加したジャパンジーことミョーミントェー氏(左)=ヤンゴン(髙橋昭雄撮影)【拡大】
■古本商、ジャパンジーの死を悼む
7月28日、ミャンマー文化省の局長からジャパンジーが亡くなったとのメールが届いた。7月上旬に電話したときは、肝臓が悪くて入院中だがすぐによくなるので8月に会おう、と言っていた矢先の訃報だった。享年41、早すぎる死である。私が主宰するミャンマー研究のメーリングリストを見て、日本だけでなく海外の大学教員からも彼の死を悼むメールが届いている。
彼は一介の古本商である。しかも自分の店を持たず、道路脇にビニールシートを敷いて本を並べ、官憲の手入れがあれば逃げ惑う哀れな露店商人にすぎない。そんな彼の死去になぜ文化省の局長が第一報をくれ、多くの研究者が哀悼するのだろうか。それについては、ミャンマー本屋業界の構造的特質に関して1996年に書いた拙稿「ヤンゴン古本屋事情」(https://ricas.ioc.u-tokyo.ac.jp/asj/html/es02.html)を参照してもらうこととし、今回は農村見聞録の一環として彼の追悼をしたいと考える。なぜならば、彼の存在は決してミャンマー農村研究の「番外」ではなかったからである。
◆民主化運動で放校に
彼の本名はミョーミントェー。しかし誰もそう呼ばず、訃報で彼の名を知ったという人がほとんどであろう。ジャパンジーという渾名(あだな)がついたのは、幼少のころ色が白くて日本人のようだったからだそうである。私が彼に初めて会ったのは92年頃であるが、そのような面影はつゆほども残っていなかった。店を構えた本屋と露店の古本商が集中するヤンゴンのパンソーダン通りを歩いていて、最初に声をかけてきたのが彼であった。次の日はホテルまで押しかけてきた。
88年に高校生だった彼は民主化運動に積極的に参加して放校処分になった。そのためか英語はほとんどできないが、上客の臭いをかぎ取って、外国人にでもミャンマー語で話しかけていく押しの強さが、居並ぶ同業者の中では際立っていた。